[#表紙(表紙2.jpg)] 不良少年の映画史 PART2 筒井康隆 目 次  「戦国群盗傳」  「ターザンの逆襲」  リチャード・タルマッジ  「巨人ゴーレム」  エノケンの「ちやっきり金太」  「海の魂」  「キング・ソロモン」  「歴史は夜つくられる」  「奴隷船」  「軍使」  「路傍の石」  「冬の宿」  「エノケンの法界坊」  「水なき海の戰ひ」  「水戸黄門廻國記」  「ロイドのエヂプト博士」  「エンタツ・アチャコの忍術道中記」  「ロッパの大久保彦左衛門」  「右門捕物帖・拾萬兩秘聞」  「エノケンの鞍馬天狗」   俳優一覧   タイトル一覧   スタッフ・評論家一覧 [#改ページ]  「戦国群盗傳」  今はなき映画館、吹田東宝。大阪市内から千里山へ縁故疎開した国民学校四年生の夏から敗戦の年をはさみ小学校六年生の夏までの約二年間、ぼくのいちばんご贔屓《ひいき》だった二番館である。母親の財布から金をくすねては同級生と一緒に、またはひとりで、よく出かけたものだが、不思議にもここへ弟と出かけた記憶がない。  この時代、ある意味では弟たちと敵同士であったといえる。兄弟で食べものを奪いあうほど仲が悪かった。いや。食糧事情の悪さがもとで仲が悪かったというべきか。食べざかりだったからこそだが、その食べものの奪いあいが尾を引いたり波及したりして喧嘩の他のさまざまな原因を作った。特に四歳離れているすぐ下の弟の正隆とは何やかやでいがみあいをした。さらにその下の二人になってくると、これはもう歳が離れすぎていて、喧嘩するとすればこちらが一方的に苛《いじ》めることになる。また、さほどひどい目に会わせた記憶もない。正隆とのいがみあいにしても、四歳も年齢が離れていながらなぜ、と、今になって思うのだが、考えるにこの時代のこの正隆、兄弟中でいちばん気が強く、負けず嫌いであったからだろう。今では逆に兄弟の中でもいちばん性温厚となり、気の強さは正義感となり、両親もこの男を最も頼りにしているようだ。聯合紙器という堅気の会社に勤め、ぐるりと大まわりしての伝聞ながら、社内得意先の評判もよく、信頼を得ているという。  さて、そもそも最初は盗み食いの牽制《けんせい》しあいであった。乏しい食糧を盗み食いされると確実に自分の食べる量が減る。せまい家の中、スパイのようにお互いの動きに眼を光らせていたことを思い出す。相手を苛立《いらだ》たせるため、わざとあやしげな行動をとったり、相手に犯行しやすい状況を作ってやって、足音しのばせ、だしぬけに襖《ふすま》をあけて犯行の現場を押さえるなどという知能戦もあった。  こうした犯行の対象が次の段階では食べものから金に移った。自分が金をくすねた罪障意識から、互いに相手が金をくすねたことを親に言いつけあったのだ。ただしこの小学五、六年ごろは金といってもたいした金額ではない。吹田東宝の入場料は小人が二円か三円だったと思う。調べてみるとこの時代、アトラクション併演の日劇の最高入場料が九円数十銭である。  正隆の陰謀にまんまと引っかかったことがある。彼は母親の財布からとった五円札をぼくの机の抽出《ひきだ》しに入れておき、それを母親に発見させたのだ。高等戦術である。両親からこっぴどく叱られ、どう弁解しても無駄であった。腹は立ったものの、その後すぐに弟をひどい目にあわせた記憶がないから、そもそもがおそらくそれ以前に弟をひどい目にあわせた報復であった筈で、だからそう思ってあきらめたのだろう。  ぼく自身、正隆と、その下の俊隆の、弟二人をひどい目にあわせた経験があり、これは弟たちもいやな記憶として、口には出さぬながら今でも憶えているだろう。ある日例の通り親にかくれて映画を見に吹田へ出かけた。国鉄吹田駅の近くの高架下を出るとあっちからやってくるのが二人の弟。弟たちの友人もひとり居たように思う。なにしろ焼け跡が多いから見通しはいい。弟たちはこれまた、言うまでもなくやはり親にかくれて映画を見てきての帰りである。ぼくは一瞬、隠れようかと思った。だがもう間に合わぬ。ぼくは逆に弟たちの方へ駈け出した。ぼくの姿を見てショックを受け、頭をかかえてしゃがみこんでしまう正隆。  こちらはまだ肝心の映画を見てはいないのだし、仲の良い兄弟ならここで共犯者意識によってにやにや笑いあい、お互いに黙っていようと誓いあうところだが、あいにくこの兄貴はたちが悪かった。お前たちが映画に出かけたことを知って連れ戻しにきた、このことを父親に言いつけてやるぞと脅し、さんざおびえさせ、連れ帰り、親に引き渡したのだ。二人の弟が父親からこっぴどく叱られたことは言うまでもない。なぜあんなことをしたのかと今考えてみると、ふだん仲の悪い正隆が父親に叱られるところを見たいというサディスティックな感情以外に、映画に行くというすばらしい悪事になぜ兄貴たる自分を誘わなかったのかという一種裏切られたような気分になったことと、悪事を共にしている弟二人の仲の良さに嫉妬《しつと》した為などの感情もあったと思う。一言つけ加えておくが現在ぼくと正隆は、住居が神戸と東京で離れているせいもあり、あまり会わぬものの、世間一般の兄弟と比べればはるかに平均以上の、仲の良い兄弟である。  吹田東宝で「戦国群盗傳」を見たのはその頃であった。少年時代に見た前進座の映画はこれ一本きり。たった一度ですっかり翫右衛門のファンになってしまった。ただし、つい最近フィルム・センターで「人情紙風船」、名画会で「河内山宗俊」を見ている。昨年、小林信彦氏、色川武大氏と三人で座談会をやった折に雑談をしたのだが、その時には三人とも、前進座の映画は戦前せいぜい五、六本しか作られていないと思いこんでいた。だが、調べてみるともう少しあった。年代順に書き連ねてみる。  前進座の映画初出演は昭和十年、日活の「街の入墨者」である。脚本と監督が山中貞雄で、これはこの年のキネ旬ベストテン第二位になっている。  次が翌十一年、日活の「股旅千一夜」。監督は稲垣浩で、前進座以外では沢村貞子と高勢|實乗《みのる》が出演している。  三作目が同じ年の日活「河内山宗俊」。監督は山中貞雄で、これにも高勢實乗が出ている。時代劇初出演の原節子がまことに初《うい》ういしいが、演技はおそるべき下手くそ。  翌十二年、P・C・Lで作った「戦国群盗傳」は前進座の映画としては四作目にあたる。  同じ年、名作「人情紙風船」が東宝で作られた。監督は山中貞雄。東宝からはP・C・Lの看板娘だった霧立のぼるが出演している。彼女のいちばん美しかった時だ。ベストテン第七位である。  十三年が東宝の「阿部一族」。監督が原節子の義兄の熊谷久虎。ベストテン第八位。  同年、東宝「逢魔の辻」。監督滝沢英輔。東宝からの出演が花井蘭子。他に滝沢修。  十四年、東宝「その前夜」。監督萩原遼。東宝からは山田五十鈴、千葉早智子、高峰秀子が出演。  十五年、東京発声映画「大日方村」。監督豊田四郎。杉村春子、中村メイコが出演。  十六年、松竹「元禄忠臣蔵」。監督樋口健二。市川右太衛門、三浦光子、河津清三郎、高峰三枝子も出演という超大作で、ベストテン第七位。  十九年、松竹の「宮本武蔵」は監督が樋口健二。田中絹代も出ている。これ、どんな映画だったのか、見たいものだ。  十六年までは一年に一作か二作の割で作られていて、これだけでも戦前に十本以上作っていることになる。まだ他にあるかもしれない。 「戦国群盗傳」は製作P・C・L、配給が東宝で、十二年の二月に日劇等で封切られている。戦後ぼくが吹田東宝で見たフィルムは良好だった。ニュー・プリントだったのだろう。原作はシラーの戯曲「群盗」であり、これを三好十郎が前進座公演用に書きなおした「吉野の盗賊」を、さらに山中貞雄が脚色している。「群盗」は中学生時代に新潮社の世界文学全集で読んだだけだし「吉野の盗賊」も見ていないので、こまかい違いはわからないが、大筋のところは「群盗」と同じだった。「吉野の盗賊」の前進座の舞台は、水町青磁氏によれば映画よりも「左翼劇風で、奇矯《ききよう》さ晦渋《かいじゆう》さ」があったらしい。だが映画ははっきりと西部劇風のエンターテインメントになっていて、豪快無比の戦国時代劇だった。 (画像省略)  スタッフは、広告だと「日本映画界・文壇・劇界・楽壇のベスト・スタッフ」である。原作と台詞の三好十郎は「前衛文壇の驍将《ぎようしよう》」であり、脚色の山中貞雄は「時代劇映画の逸材」である。これに撮影が「名手」唐沢弘光、音楽が「楽壇の巨匠」山田耕筰。演出は「P・C・L入社第一回」の滝沢英輔。映画は第一部「虎狼」、第二部「暁の前進」となっていたが、戦後は休憩もはさまず一挙上映された。両方で二時間くらいだったと思う。  例によってキネ旬の略筋を追う。 「永禄、元亀の年代、天下は麻の如く群雄随所に割拠する時代。伊豆土佐の庄の城主土岐左衛門|尉《じよう》秀虎は小田原の北條家へ、兵糧金伝達の使者として長子太郎虎雄を命ずる」  秀虎が阪東調右衛門、太郎虎雄が河原崎長十郎である。長十郎、名家の長子としての貫禄、風格、品格、共に充分である。 「彼には弟次郎秀国があるが、次郎が兵糧金調達の為め百姓から取立てた事を批難して相争ふ」  ひねくれ者で嫉妬深い弟役を河原崎国太郎が演じていて、映画はこの兄弟喧嘩の場面から始まる。むろん長十郎が、貧しい百姓の味方である。国太郎は役柄にぴったり。 「太郎の許婚《いいなずけ》小雪姫は程近い祝言の喜びを胸に秘めて暫《しば》しの別れを惜しんだ」  小雪姫にP・C・Lの娘役女優、千葉早智子。この人は邦楽洋楽ともにこなし、歌える上、スタアのいないP・C・Lにいたので、喜劇、音楽映画、現代劇、時代劇と、あらゆる映画に出演していた。おとなしく、繊細な感じのする女優さんだった。この小雪姫に、弟の次郎秀国が横恋慕しているのは定石通りである。 「治部資長を首領とする野武士の一団」に話は移る。首領が市川笑太郎、主なる一味として敏捷《びんしよう》な猿丸を演じるのが市川莚司のちの加東大介、僧侶《そうりよ》上りの梵天《ぼんてん》が中村鶴蔵、馬方上りの足柄岩松が中村進五郎、大食漢の抗兵衛が山崎進蔵、偸盗《ちゆうとう》上りの近江の藤太が助高屋助蔵といったところ。この一味に対して天下第一の狼藉者《ろうぜきもの》と自称する甲斐の六郎がからんでくる。甲斐の六郎が中村翫右衛門である。「河内山宗俊」における金子市之丞、「人情紙風船」における髪結新三など、この翫右衛門はとぼけていて凄味のあるこのような役を演じればすべて絶品である。にたにた笑って冗談を言いながら、平気で人を殺したりする底知れぬ不気味さを、翫右衛門は確固として演じ切っている。最初この六郎が、野武士から奪った馬を百姓のところへ、その馬の本当の持ち主と知らないで売りとばしに行くエピソードが楽しい。 「太郎の一行が山道へ差し掛つた時、野武士の一隊に襲撃され、彼は崖下へ転落し、金は甲斐の六郎に奪ひ取られる」  またもや狙った金を甲斐の六郎に横取りされた野武士たち、もはやかんかんである。 「土岐の城で佞奸《ねいかん》邪智の家老山名兵衛は、太郎が兵糧金を持つて逐電《ちくてん》したと左衛門尉と次郎に報告する。彼は次郎を戴いて土岐家を乗取り、北條を裏切つて上杉へ通ぜんとしてゐるのである」このゲジゲジ眉の奸臣山名兵衛を演じているのは橘小三郎。 「太郎は谷間にある水車小屋の親爺音五郎とその子田鶴、音蔵姉弟の手厚い看護を受けた」田鶴が山岸しづ江、音蔵が市川扇升。のちに長十郎夫人となる山岸しづ江、このころは映画の中で長十郎の奥さん役を演じることが多かった。この映画では短い着物を着て足を出すなど、せいいっぱい若づくりをし、可憐な田舎娘を演じているのが面白い。 「土岐城へは北條家の使者畑山剛太夫が来て兵糧金の未着を詰《なじ》ると、今は全く山名の奸言に迷つた次郎は、兄太郎が金を持つて逐電したと告げる。この為め太郎は北條家のお尋ね者となる。山名に操られた次郎は兄を退けて家を継がんため、太郎の首に懸賞金をつける」使者畑山剛太夫が嵐芳三郎である。  傷も癒《い》えた太郎虎雄は、金を奪った野武士を捜してとある居酒屋へやってくる。折しもその店では甲斐の六郎が野武士たちに見つかり、あわや大喧嘩になりかけている。太郎はこの喧嘩に巻きこまれ、六郎と共に野武士たちとわたりあう。太郎虎雄の豪勇ぶりが面白い。なにしろ十数人の野武士に抱きつかれたまま店の外に駈け出て、片っ端から投げとばしてしまうのだ。この常軌を逸した大力無双ぶりはまるっきり少年講談の世界である。  この喧嘩がもとで太郎虎雄は甲斐の六郎と仲良くなり、一夜、六郎の汚い隠れ家《が》に泊めてもらう。六郎は太郎から事情を聞いて気の毒になり、隠しておいた金を返してやろうとするが、本当のことを言うと太郎が怒り出しそうなので何度も念を押す。 「貴公、怒らぬか」 「なんの話だ。まあ、言ってみろ」 「いや。怒らぬと誓ってくれ。さもなければ言わぬ」 「では誓おう」  ここのところのご両所の掛けあい、なんともメルヘン的で、のんびりしていていいムードである。前進座ファン、二大スターのファンが大喜びする場面。  庭へ出て、埋めた金を掘りはじめる二人。そこへいつの間にか野武士たちがやってきて二人をとり囲んでいる。弁舌さわやかに甲斐の六郎が野武士たちを説得し、とうとう連中を仲間にしてしまい、太郎に金を返す。六郎が野武士たちをアジる場面は他に数カ所あるが、アジテーターとしての翫右衛門の面目躍如たるものがある。 「その金を持ち帰る途中、太郎は北條の役人宮崎に捕へられ牢獄に投ぜられる。六郎は野武士団を率ひて破牢し彼を救ひ出してやる」  役人宮崎主水が瀬川菊之丞。役者のぜいたくな使いかたにはびっくりする。  太郎は、野武士たちが心配してとめるのもきかず、愛する小雪姫の待つ城へ戻る。ところが門は閉じられ、叩けど叫べど開けてもらえない。一方城内では、太郎の声を聞き、狂ったようにとび出して門を開こうとする小雪姫が、山名兵衛につれ戻されている。城外では太郎をとりかこむ役人たち。城内からの発砲で太郎は負傷する。かくもあらんとやってきた甲斐の六郎と野武士たち。太郎は危く救われる。 「肉親の無情を知つた彼は今こそ決然として彼等野武士の群に投じて叫ぶ。『土岐太郎は今日只今死んだ。今日生まれたのは天城の虎雄だ』こうして彼は天城に巣食ふ野武士の首領となつた」  ここまでが第一部である。封切当時日劇では他の映画との併映ながら第一部が二月十一日、第二部が二月二十一日と、分割して上映された。一部二部共に八巻であり、キネ旬興行価値欄には一挙上映するとやや冗長と書かれている。略筋欄には記憶にないエピソードもある。ぼくが見たプリントは編集しなおしてあったのかもしれない。  さて第二部。「太郎は野武士団の首領となり、『天城の虎』の名は近在に響き、彼の首には五百金の懸賞が附けられた。太郎は団員を集めて良民を苦しめる所業を一切禁止する」  禁を犯した仲間を、甲斐の六郎が難詰する場面。「規則を憶えているか。言ってみろ」ぼそぼそと答える男に、六郎は笑いかける。 「そうだ。その通りだ。よくぞ憶えていた」だしぬけに殴りつける。凄絶である。 「太郎は嘗《かつ》て救はれた恩を忘れず時々水車小屋を訪れてゐた。田鶴と弟音蔵は彼を土岐の若殿様として尊敬してゐるが、彼が『天城の虎』である事は知らなかつた。或る時太郎は水車小屋を訪れて、治部と梵天の二人が田鶴を拐《かどわか》さうとして父音五郎を殺したのを知つた」  太郎に顔を見られたと思い、治部は役人のもとへ走って山塞《さんさい》のありかを密告する。掟《おきて》を破って自棄となりながら良心の呵責《かしやく》に苦しむ治部を市川笑太郎が好演していて忘れがたい。 「翌朝山塞で彼は野武士一同を集めて点呼した。梵天は首領に詰問されて捨台詞を残して飛び出さうとした時、追手の役人に射殺される」すでに役人たちは山塞をとり囲んでいたのである。「ここに役人隊と野武士団の大乱戦が展開される」  山塞が焼け落ちるシーンはずいぶん大がかりだった。この大きな山塞のセットは内部も実によく作られていた。装置は北猛夫。 「鉄砲隊に攻められ勝算なしと見た甲斐六郎は、一月後乙女峠の頂上で再会を約し、一同は離散する事になつた」  この有様を隠れて見ていた治部、山を下って逃げはじめる。火薬に火がついて轟然《ごうぜん》と大爆発する山塞。その音で立ちすくむ治部。仲間を裏切った苦悶《くもん》と孤独感に満ちた表情。  次がぼくの大好きなシーン。治部が淋しさをまぎらすため料亭で酒を呷《あお》っている。なぜかこの場面の五、六人の料亭の女たちの中に清川虹子、山縣直代といったP・C・Lの女優陣が出ている。山縣直代はわけもなくくすくす笑ってばかりいるので、いらいらしている治部に怒鳴りつけられ、すぐに立ち去る若い女の役である。  ここへ鉄砲を持って甲斐の六郎があらわれる。ぎくりとする治部。だが六郎はにこにこしながら女たちを遠ざけ、じつは鉄砲を手に入れたものの、撃ちかたがわからぬので教わりに来たと言う。ほっとする治部。盃を口に運びながら撃ちかたを教える治部と、こうか、などと言いながら鉄砲をひねくりまわす六郎。カット変って料亭の入口。ずどん、と銃声。女たちの悲鳴。やがて鉄砲片手に、謡《うた》いながら悠悠と出てくる六郎。ぼくが翫右衛門にすっかり参ったのはこの場面なのである。 「その頃土岐城内では左衛門尉が遠乗りの途次崖下に墜落し行方不明となつた。乙女峠へ戻つた太郎は、思ひ掛けなくも重傷の父が仲間に助けられてゐるのを見た。父は兵衛に謀《はか》られて崖から突落された事を打明けて息絶えた。太郎は単身城内へ乗り込んだが、その時はすでに小雪姫は次郎との祝言を嫌ひ、毒を飲んでゐた」  最後のクライマックス。小雪姫をさがして荒れまわる太郎。城内に火がつく。兵衛は事が不成功と悟り、次郎を斬ってしまう。その兵衛を、今度は太郎が成敗《せいばい》する。燃えさかる火の中、太郎は小雪姫を抱きあげる。太郎の腕の中で死んでいく小雪姫。 「間も無く黎明《れいめい》の山頂を、野武士団の一行は田鶴、音蔵を加へ、盟主太郎虎雄を先頭に甲斐六郎が附添ひ合唱の声も朗々と進んで行く。暁の光りが彼等の頭上に輝いた」  ラスト・シーンである。太郎が「自由の地を求めて」などと言うところがおかしい。そもそも自由の地を求めて山塞にこもったのではなかったのか。狭い日本、他に自由の地などある筈がないなどと思ったりもしたが、やはり前進座の映画であって、そういう科白《せりふ》がないと決まらないのだろう。全篇に流れる合唱はすべて男声合唱で、山田耕筰の、ややおざなりと思える曲だった。  この映画の封切は、ちょうど大作「新しき土」とぶつかった。大入り満員の「新しき土」に対してこの映画、外国の大作映画並みの宣伝が効を奏してずいぶん善戦したらしい。日劇では最初の五日間で二万円を突破したという。  当時の評はどうだったのだろうか。前記水町青磁氏の評価の中で、ぼくとほぼ一致する部分のみを紹介しよう。 「凡《およ》そこの作品に出て来る人物には『物語』的風貌はあつても『生活』的個性は極めて少ない。無いといつてもいゝ位である。だが其れが此の作品を物|古《ふ》りたるテーマの味気なさから、現実的に遠ざけ、それ故伝奇的な興趣が全篇を一貫して流れるのである」  ちょっとまわりくどいが、要するに虚構に徹したからよかったと言っているのだ。 「此の作品には大らかな、素材をカメラの前に据え切つた様な自然さがある。が注意すべきは、この滝沢の自然さといふものが、此の社が従来彼の職場であつた諸会社とは違つた機構を持つてゐるといふ彼自身の観念が、作品スタイルにまで影響してゐたといふことである。随《したが》つて寧《むし》ろ此の社では一種のスペクタクルを要求する目的から此の作品を選んだのに、それが完全に達せられてゐなかつたといふことだ。だが従来敬遠され勝ちなこの種のコスチュームをこなしてゐる点は買ふべきであつた」  昔の人はややこしい書きかたをするものだ。 [#改ページ]  「ターザンの逆襲」  ターザンは戦後、グランド系の洋画館でしばしば上映されていた。ぼくがよく通ったのは当時占領軍に接収されていた北野劇場と国鉄城東線(現在の環状線)の高架との間にある梅田グランドである。梅田グランドの前に金網をめぐらせた占領軍用の小さなグラウンドがあり、ここが現在の梅田コマ・スタジアムになっている。千日前グランドにも行った。現在花月劇場になっていることでもわかる通り、ここはもともと寄席で、その当時の支配人は吉本興業社長の八田さんであった。他に新世界グランドというのもあり、現存するが、この方面へ足をのばしてまでターザンを見た記憶はない。たいてい北(梅田)か南(千日前)で同じ映画を封切っていたからだ。  封切りといってももちろん戦前に封切られたもののニュー・プリント再上映である。M・G・M映画「ターザンの逆襲」原題「TARZAN ESCAPES」は製作が昭和十一年、日本で公開されたのが翌十二年三月十八日(大勝館・帝国劇場・武蔵野館・大阪松竹座)である。当然のことだがM・G・Mの弗箱《ドルばこ》ターザン、どこの館でも大入り満員、その盛況ぶりはくだくだしく書かないが、キネ旬景況調査欄で「例へ前二作よりはつまらなくとも娯楽映画ターザンに不況は絶対になく」と書かれているので、そのことをちょっと説明しておこう。 「ターザンの逆襲」はジョニー・ワイズミュラー主演ターザンの第三作目である。第一作は「類猿人ターザン」で、監督はW・S・ヴァン・ダイク、原題は「TARZAN THE APEMAN」。これはターザン物の最高傑作であったらしいが未見。第二作は「ターザンの復讐」でセドリック・ギボンズの監督、原題は「TARZAN AND HIS MATE」。これも未見。第三作の監督がリチャード・ソープ。ところが前二作の好評に比して、キネ旬での評価がはなはだ悪いのである。滋野辰彦氏によれば「ヴァン・ダイクのターザンは、私はこゝ数年来の、といふよりあらゆる映画中の最も面白い映画の一つに数へてゐるほどで、之を目してヴァン・ダイク最大の傑作と為してゐるのだ。『影なき男』なぞも『ターザン』の面白さには及ばない。(中略)ギボンズのターザンはヴァン・ダイクの後を受けて、やゝくどくなりすぎてゐたが、依然として活動写真的興趣に満ちたものであつた。そこで今度は第三作である。当然こゝで一転する必要のあることは直ちに予想される。(中略)リチャード・ソープの監督作ターザンは、この三番打者の重圧に堪へなかつたと言ふべきである。この当りは、まあ精々内野ゴロ位のところであらう」ということになる。  しかしながら少年時代のぼくにとってどのターザン映画もやはり面白さのひとつの頂点をなすものだった。同級生にもターザンの影響をもろに受けているやつが多く、ターザンのあの咆哮《ほうこう》のおそるべく上手な番作重蔵という少年、ターザンという渾名《あだな》を持っていた山田潔という少年もいて、(みんなどうしてるかなあ)中学生にもなりながら皆ターザンごっこに夢中になったものだ。今考えれば危険極まりないこともした。東第一中学の校舎は平面がL字型になった三階建てで、その屋上、Lの字の内角点に高さ四、五メートルの避雷針が立っていた。その頂きからアースのワイヤー・ロープが垂れ下がっていて、これにすがり、L字型の内角を四半分の円弧を描いて飛んだりしたものだ。落ちれば十数メートル下はコンクリート敷の運動場、命はなかった。自慢ではないがこれをやったのはぼくひとり。その他屋上の端からぶら下がったり、ずいぶん無茶をやったが叱られたことは一度もない。不思議にもこの時代、「ターザンごっこの少年死亡」という類の新聞記事を見た記憶もない。ターザンかぶれの少年は日本中いっぱいいた筈なのに。  さて、「ターザンの逆襲」のストーリイであるが、なにしろターザン映画は十本ほど見ているのでどれがどれやら、頭の中で細部が輻輳《ふくそう》していてよくわからない。そんなことをいうと大勢のターザン研究家に怒られそうだが、なにぶんこの種のシリーズもののストーリイは同工異曲で困ってしまう。へたなことを書くとたちまちどっと投書が来る。なにしろターザン・マニヤの熱狂ぶりたるや凄いもので、月報を出したり論争をやっていたりしていて今でも大変なものなのだ。ぼくも一冊持っているが「TARZAN OF THE MOVIES」という、二百頁以上の写真集になったGABE ESSOEという人の研究書もあるくらいで、これには初期のエルモ・リンカーンのターザンから最近のテレビのロン・エリイのものまで収録されている。それどころかハル・ローチ喜劇のチャーリイ・チェイスによるドタバタ・ターザン、ジミイ・デュランテの「シュナーゼン」、ウラジミール・コレノフのロシア・ターザン、シンガポール製のペン・フェイ主演「中国ターザンの冒険」まで収められている。この中国ターザンをタモリに教えてやったので彼の十八番芸、あの「スーシーホー」と叫ぶターザンが生まれたのだ。 (画像省略)  ジェーンをたずねてはるばるイギリスからやってきた娘リタにベニタ・ヒューム。その兄エリックにウイリアム・ヘンリー。彼らの従姉にあたるジェーンに巨万の遺産相続の話があり、その為にはジェーンがいったん帰国しなければならないので、二人は彼女をつれ戻しに来たのだ。二人の道案内を買って出る狩猟家のフライ大尉にジョン・バックラー。三枚目役をつとめる同行者ローリンスにハーバート・マンディン。一行は土人どもをひきつれてアフリカの奥地へ出発する。土人たちが恐れて行きたがらないのを無理やりに同行させるというお定まりのパターンである。その彼方に禁断の神秘境があるというムチア絶壁、この絶壁がジャーンといって画面にあらわれると、土人たちはふるえあがり、観客ははや、わくわくである。秘境へたどりつくため一行は洞窟《どうくつ》を通り抜けねばならないのだが、その洞窟の中には底なし沼がある。足をすべらせると一巻の終り。沼のほとりには大型トカゲと思える体長一メートルぐらいの爬虫《はちゆう》類が数匹待ちかまえていて、誰かが落ちるとぴゅっ、ぴゅっと跳んで沼にもぐる。食いに行くのだ。案の定、荷物かつぎの土人がひとり、わああああああなどと叫びながら落ちる。たちまちずぶずぶと沈んで行き、トカゲがぴゅっ、ぴゅっ、泥の上には虚空をつかんだ手がにょっきり、やがてそれも沈む。泡がごぼり、ごぼり。眼をそむけてふるえあがるリタ。ま、当時の感覚では蛮人のひとりやふたり、虫ケラの如きものであるからして構ってなどいない。さらに前進する。  ジャングルの彼方からターザン(ジョニー・ワイズミュラー)の咆哮が聞こえてくる。 「アーあアあアーあ、あアあア」  この咆哮、現在老いて老人ホームに入ったワイズミュラーが廊下へ踊り出てはやたら叫ぶので、他の老人連中が大迷惑しているという話を聞いたが、実はもともとワイズミュラーの声ではなく、フクロウの声だの何だのを録音し、逆回しにしたりして合成したものであることはご承知の通り。ターザンはジェーン(モーリン・オサリヴァン)と幸福な原始生活を営んでいる。この辺の日常描写を滋野辰彦氏は「ターザンはジェーンと樹上に家を造つて住んでゐるが、小賢しい文明人の知恵で、生活の方法は白人と同じものに近づいてゐる。象の力を利用してエレベーターの設備があるなんか、まあ苦笑ものであらう」と苦にがしげに書いている。なんのことはない象がツタで編んだロープを引くと籠《かご》の如きケージが上昇するというだけの仕掛けだが、こういうギャグはぼくは好きで、もっとたくさん工夫してほしかったくらいだ。脚本は前作「類猿人ターザン」と同じシリル・ヒューム、撮影はレナード・スミス、書くまでもあるまいが原作はエドガー・ライス・バロオス。  チータも配役序列《ビリング》九番目にHERSELFとして出ている。ただしこのチータ役の雌チンパンジー、一匹だけではなく、数匹いたらしい。一匹では芸に限りがあったのだろう。この映画であったかどうだったか、探険隊の女性のテントへしのびこんだチータが、クリネックスの箱から次つぎとティシュ・ペーパーをとり出し、次から次へいくらでも出てくるものだからとうとうテントいっぱいティシュ・ペーパーだらけにしてしまうギャグがあった。当時あのてのクリネックスの箱は日本になかったが、あのチータの演技は絶品だった。この映画でもコメディ・リリーフとしてハーバート・マンディンとからむシーンが当然あった筈だが記憶にない。  例によってこの映画でもターザンとジェーンが湖で泳ぐあのエロチックなシーンがある。そして湖畔での寝そべった姿の抱擁とキス。思春期のぼくにとってはずいぶん刺戟的であった。なにしろ両者ハダカなのだ。この映画では水中撮影のシーンでモーリン・オサリヴァンの乳房が丸見えになったためずいぶん評判になったというが、ぼくはこれも記憶していない。おっぱいどころではなく、ぼくにとってジェーンのあの恰好はエロチックであるどころかほとんど猥褻《わいせつ》でさえあった。場面によって衣裳は着換えているものの、時には上下にわかれて腹の出たセパレーツ姿になり、その場合下半身の衣裳たるや、細紐《ほそひも》一本を胴に巻きつけ、局部の前へは四角い布を一枚垂らしているだけ。つまりこれは横から見るとほとんどまる裸なのであり、日本人が見れば褌《ふんどし》なのである。アメリカには褌はないからモーリン・オサリヴァンも平気だったのだろうが、ずいぶんひどい恰好をさせたものだ。あの恰好の為にぼくなど何回自慰衝動を触発させられたことか。  ターザンと鰐《わに》の格闘もある。ただしこの場面、清水千代太氏はキネ旬の批評で「唯一の格闘たる鰐との水中合戦も、前作にあつたものを挿入したものであると僕は記憶する」と書いている。千代太氏の言うことだから、おそらくそうなのだろう。ついでながらこの清水千代太氏「ワイズミュラーは相変らずその肉体だけである。彼の魯鈍《ろどん》らしい容貌は、ターザン以外には何も出来ないことを立証するものだ」などというひどいことを平気で書いている。今なら人権問題になってしまう。  他にどんなエピソードがあったろうか。ジェーンだかリタだかがライオンの仔二頭を見つけて抱いているところへ親ライオンが戻ってくるというシーンもあったと思うが、他と混同しているかもしれない。  フライ大尉は腹黒い男で、ターザンを捕えてイギリスへつれ帰り、見世物にしようとたくらんでいる。ターザンと別れたジェーンが従妹たちと共に出発したのち、フライ大尉はとめるローリンスを射殺、首尾よくターザンを生捕りにする。さらに彼はジェーン、リタ、エリックの三人が蛮人につかまるよう画策する。ところがこの全員白塗りの奇怪な顔をした生蕃《せいばん》どもの方が役者が一枚上。フライ大尉を裏切って全員を捕えてしまい、これを祭りの生《い》け贄《にえ》にしようということになる。鉄の檻《おり》に入れられてしまったターザンは、生蕃どもに絶壁を運ばれて行く途中、自ら檻を揺すって渓谷に墜落した。  蛮人どもの祭典がはじまる。一行の命は風前の灯。崖下のターザンは例の咆哮で親友の象たちを呼ぶ。二頭の象が両方から鉄格子に鼻を巻きつけて引き、巨大な力で曲げてしまう。檻を脱出したターザン、象の大群を率いて蛮人の部落を逆襲、一同を救出する。  むろん騒動の元兇《げんきよう》たるフライ大尉の死がなければ話は終らない。あの洞窟の中の底なし沼へ落ちてしまうのだ。足をすべらせ、あははははははなどと泣き声を出しながら沼へ落ちたフライ大尉、沈む間際に息を吸いこんだりするが、そんなことをしたって助かるものではない。ずぶずぶずぶずぶ、虚空をつかんで折りまげた指、トカゲがぴゅっ、ぴゅっ、泡をごぼごぼごぼ、窒息するのが早いか爬虫類に食われるのが早いか、まさに死ぬ以上の苦しみであろうと想像して慄然《りつぜん》とする。なんといっても「ターザンの逆襲」の、誰もがいちばんよく憶えている代表的シーンはこのシーンである。コールマン髭《ひげ》をはやしたジョン・バックラー、一種の美男子なので尚さら可哀そうなのだ。  ラストはキネ旬紹介欄より。「エリックとリタは愛し合ふ二人を別れさせるに忍びず、ジェーンの署名だけを貰つて帰国し、ターザンは幸福の神秘境にジェーンとの平和な生活を続ける事になつた」  いろいろと悪口を言いながらも滋野辰彦氏、最後にはこう書いている。「然し第一作の成功以来続々と現れた模倣映画、ハーマン・ブリックスやバスター・クラブのターザン、それから先だつて封切になつたパラマウントの女ターザン『ジャングルの女王』に比べると、それでも流石に本家たる貫禄は失つてゐない。恐らくこれは主演者ジョニー・ワイズミュラーの素晴らしく野性的な肉体並びにパースナリティーによるものであらう。ブリックスやクラブは彼の前に出ると、それこそ本物と、贋物《にせもの》だけの差があるのだ」 「類猿人ターザン」の大成功によって作られたこのころのターザン物ではハーマン・ブリックスの「THE NEW ADVENTURES OF TARZAN」、バスター・クラブの「TARZAN THE FEARLESS」がある。「ジャングルの女王」というのはドロシイ・ラムーア主演の「THE JUNGLE PRINCESS」のことで、レイ・ミランド共演。  ターザンのことではもっと書きたいことがあるのだが、次回ターザン物をとりあげる時の為に残しておこう。この「ターザンの逆襲」が戦後CMPE(セントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジ)から入って再上映されたのは昭和二十二年の夏、ぼくがいちばん悪かった時代なので、その頃のことを少し書かねばならない。映画代を盗み出そうとしてももはや両親には一刻の油断もない。なんとか金が欲しいと思ったぼくは、いったいどこから仕入れた知恵だったのか、ついに母親の着物に手を出した。風呂場の前に脱衣場兼用の板の間があり、ここに箪笥《たんす》があった。家人の寝静まった夜、ぼくはこの箪笥から母親の和服を一枚とり出し、箪笥の上に投げあげておいた。夜の暗がりなのでどのような和服だかよくわからないし、たとえ見たところで子供の目では和服のよし悪しや値ぶみなどできるわけがない。ちょっとした値うちものの絞りの羽織であったと知ったのはだいぶあとのことである。  あのとき、盗みがばれないと思っていたのだろうか。たくさんある本を次つぎに盗み出し、高く売れそうな本が残り少くなり、これ以上持ち出すとばれる、と自分で思いはじめ、少し遠慮する気になったのだが、それでもばれなかったのだから、まして箪笥にいっぱいある着物の一枚ぐらい、なくなっていても尚さらばれない筈と自分を思いこませていたのかもしれない。なにしろ本を売った金ぐらいでは、とても豪遊できなかったのだ。豪遊といってもデパートの食料品売場でうまそうなものを二、三買い、映画を三本ほど見るのがその時代のぼくの豪遊だったのだから、いじましくも可愛らしいものであった。  朝、例の頭陀袋《ずだぶくろ》のごとき鞄《かばん》を肩にかけたぼくは、家を出る直前、箪笥の上の着物をさっと手早く鞄の中へ入れてしまう。どうせ登校する気はないので学用品、教科書、ノートの類はごく僅《わず》かしか入っていない。和服一枚、なんとか鞄におさまる。そのふくらみを母親に気づかれまいとしながらいそいで家を出る。阪急電車に乗って天神橋六丁目に着き、ぼくは商店街を天五まで歩く。そこには青空市場があり、お馴染天然パーマのお兄ちゃんの青空書房がある。母から売ってくるよう言いつかってきたという例の嘘を言ってぼくはお兄ちゃんに母親の着物を見せる。その時はじめて見憶えのあるその和服が、よく母の着ていた普段着の羽織であると知る。一瞬懐しいような気分になるが罪悪感にとらわれている暇はない。むしろ母親に早く気づかれるのではないかといういやな予感にほんの少し襲われる。頭の中は、いくらで買ってくれるだろうかという期待、買ってくれないのではという不安でいっぱいである。この時はすでにお兄ちゃんのところへ本を運びはじめて数十回目だから、お兄ちゃんも盗品ではなさそうだと思ったのだろう。自分では目が利《き》かぬので近くにある自宅までぼくをつれて行く。お兄ちゃんの母親という人は、小柄でよく肥えた人だった。この時、いくらで買ってくれたのだろう。前後三回着物を持って行ったが、この時がいちばん高く買ってくれた。といってもどうせ着古したもの、数十円という法外な安い値段であったに違いない。それでもぼくにとっては充分豪遊できるだけの大金だった。思っていた以上に高く買ってもらい、嬉しかったことを憶えている。これで味を占め、ぼくはさらに二枚、次つぎと母親の和服を持ち出しては売りとばすことになるのである。 [#改ページ]  リチャード・タルマッジ  タルマッジといえばごく少数の人が女優ノーマ・タルマッジの名をあげるくらいで、今やほとんどの人がリチャード・タルマッジの名を知らない。本来ならばぼくだってそんな名は知らずにいたところである。あいにく不良少年だったお蔭で千日前のアシベ小劇場、歌舞伎座地下劇場、歌舞伎座五階劇場、戎橋《えびすばし》小劇場などの三流館、四流館にかかっていた古いタルマッジ映画を見て漁《あさ》ることができたのだ。だからぼくにとってタルマッジといえば鳥人リチャード・タルマッジのことなのである。  敗戦直後における前記四つの映画館というのはほんとにほんとにひどいところで、アシベ小劇場のことは以前に書いたが、戎橋小劇場というのもこれに輪をかけてひどい映画館だった。おかまのメッカで、おかま狩りが支配人の重要な仕事であった、などと聞かされたのはずっとのちのこと。昭和九年前後に作られた「大仏廻国記」などというパート・カラーの観光映画、しかもブツ切れで数十分の代物《しろもの》を、まるで怪獣映画みたいに大仏さんが都会の真ん中で電車を持ちあげ、人間が逃げまどっている、総天然色みたいに見えぬこともない大看板を出して客を集めていた。ぼくも見てしまった方だが、志賀廼家淡海が大仏さんに淡海節を歌って聞かせたりするつまらぬつまらぬ映画だった。他にも耳の外科治療の医学映画をいかにもお産の映画みたいな宣伝で上映し、さすがにこの時は客の怒りを恐れて支配人が一日中、近くの喫茶店に避難していたという。  これに比べればタルマッジ活劇の上映などまだましな方で、もともと添え物として作られた映画だからほんの五、六巻、わずか数十分の映画の単独上映ではあったが、内容の面白さでぼくなどは満足した。それでもあまりの短かさに、見終った大人連中、にやにや笑っていた。当時の大阪の人間はこういう場合、だまされたといって怒ったりすることは滅多になかった。だましあいの時代でもあったのだ。  タルマッジがどのような俳優であったか、以前にも紹介したことのある、ぼくと淀川長治氏との対談の中からの抜萃《ばつすい》でご想像願いたい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  筒井 リチャード・タルマッジという俳優ご存じですか。  淀川 リチャード・タルマッジごらんになったのですか。そんなお年じゃないでしょう。おそらく四、五歳のころでしょう。  筒井 いえ、終戦後なんです。  淀川 終戦後、そうだ、リチャード・タルマッジ一度くらい来ましたよねェ。  筒井 ほんとうですか!  淀川 いや、来たって、映画がね。再上映で珍品として登場。  筒井 もちろん、そうです。いやァ、やっとリチャード・タルマッジ知っている人にめぐり会えた。もちろんご存じなのは当然ですけどね。だれに聞いても、みんな知らない、知らないというんで。  淀川 タルマッジは有名な活劇役者でね。タルマッジは連続活劇の花形の一人でね、私なんかタルマッジが来ると、楽しんで見たものでしてね、それは遠い昔でね。あなたがごらんになっているのにはびっくりしたけど、それは戦後再上映の、非常に珍しい再上映ですよ。  筒井 再上映というよりも、戦前のフィルムで日本に残っていたやつがあったんだと思うんです。ブツ切れで、ストーリーなんか何が何だかわかんない。  淀川 懐かしの名画大会みたいなものなんでしょう。それ見て、あなたおもしろかったでしょう。  筒井 それはもう……とにかく影響されまして、あれのまねして、屋上からぶら下がったり、二階から飛びおりたり……。  淀川 飛びはねたりね、オートバイ乗ったりね。タルマッジというと、もう明るくて、アメリカ青年の代表でしたね。  筒井 そんなに有名なの。  淀川 ええ、人気者でした。タルマッジいうのは、連続活劇のA、B、CならB級の人、つまり上じゃないんです。それだけにかえってなじみやすいのです。つまり気楽に見られる、いわば三本立ての映画館で、笑いながら見られるというのがタルマッジです。一流はたくさんいますよ。エディ・ポローだとか、パール・ホワイトだとか、ルス・ローランドだとか、ウィリアム・ダンカンだとか、たくさんいますけど。  筒井 その辺はもう名前だけで、ぼくは知らないんですけど。  淀川 そうタルマッジごらんになってよかったですねェ。  筒井 日本の俳優でハヤブサ・ヒデトというのがいました。あれはタルマッジのまねじゃないですか。  淀川 まねですね。そうしてハヤブサ・ヒデトなんていう人は、神戸のオリエンタル・ホテルのあの高いところから、向かいの貿易会社のビルへほんとうに飛んだんです。それでえらい評判になったことがあってね。とにかくタルマッジだとかウィリアム・ダンカンは、活劇の非常におもしろい魅力を私たちに与えました。あなたがタルマッジ見たというんで、びっくりして、そのころごらんになっているはずないと思って……。  筒井 だから再上映で。少し年上の人に聞いても、だれも知らない、知らないというもんだから、もうさみしくてしかたがなかった。やっと……。  淀川 タルマッジは有名です。そういうことをよかったら、何でもお聞きなさいね。気楽にどうぞ聞いてください。 [#ここで字下げ終わり]  ぼくが最初歌舞伎座地下劇場で見たタルマッジ映画は「絶海の爆弾児」で原題が「THE LIVE WIRE」。全六巻という添え物映画だが、他に見た三本と比べていちばんフィルムのまともな状態のものがこれであった。これだの「肉弾王者」原題「THE FIGHTING PILOT」だの、ぼくの見た四本は日本で昭和十二年に次つぎと封切られた作品。三木商事という会社がまとめて輸入したものらしい。 (画像省略)  千日前の前記四館ではこれらがたらいまわしに上映されていた。しかもタイトルを「肉弾王タルマッヂ」だの「タルマッヂの爆弾児」だの、勝手にころころ変更して上映するものだから、だまされて同じ映画を別の館で見せられたことも何度かある。ただしこれはタルマッジ映画に限ったことではない。 「絶海の爆弾児」のストーリイは要するに無人島の宝捜しである。「ディック(リチャード・タルマッヂ)の持つてゐた壺からスニード教授(ヘンリイ・ロックモア)は探検隊を組織して絶海の孤島に向つた。ディックは船長の娘マッヂ(アルベルタ・ヴォーン)と親しくなつたが、船中にはブル・デニス(ジョージ・ウォルシュ)の一味が乗込んでゐて、教授一行に敵対する。船は島近くで難破したが、ディック等は島に渡り廃墟となつた町を発見し、デニス等を打破つて救助船に乗り帰途につく」という他愛のない話。製作は米バーナード・B・レイ、原作レオン・メッツ、脚色カード・ハートマン、監督ハリイ・S・ウォッブ、撮影ヘンリイ・クルウズとエーブ・ショルツ。知らぬ名ばかりである。キャストは他に船長がチャールス・K・フレンチ、臆病な黒人の召使いサムにマーチン・ターナー。  開巻早早に港の酒場で殴りあいがある。タルマッジは殴られて背後のテーブルで仰向《あおむ》けに一回転したりする。タルマッジ映画の殴りあいというのはいつもドタバタ調で面白い。後年タルマッジは乱闘場面専門の監督となったが、「アラスカ魂」の、あのドタバタじみた乱闘シーンの監督がタルマッジである。まず、ああいった乱闘であると思っていただきたい。ずいぶん血沸き肉躍ったものだ。学校でもよく真似をした。テーブルや椅子越しに飛鳥の如く友人におどりかかって共に転倒したりするわけである。この映画では他に、波止場の三階建てのビルの屋上から地上のトラックの荷台にとびおりたりする。洋上における帆船の甲板でも大乱闘。もちろん帆綱から甲板上の敵に向かっておどりかかったりするのだ。 「絶海の爆弾児」ではタルマッジは船員だが、「肉弾王者」の方では青年飛行士となる。こちらの方は飛行機から飛行機へ空中をとび移るシーンが圧巻。まさに鳥人である。  疾走するオープン・カーの上で数人が乱闘している。これをオートバイで追うタルマッジ。車に激突したオートバイからタルマッジが車にとび移って乱闘している連中に体あたり。その勢いで全員車からころげ落ちるという物凄さ。まさに肉弾王である。こちらの方はタルマッジ・プロダクションの作品で、原作ラルフ・クサマノ、監督ノウエル・メーソン、共演がガートルード・メシンガー、ロバート・フレイザー、エディ・ティヴィス。内容はいずれも似たり寄ったりで他の作品同様ギャングたちとの争いである。したがってあとの作品については紹介を略す。  これらの映画はすべてトーキーだった。つまりタルマッジの作品としては最後期に属している。それでも興行成績はよかったという。ひとつには、この昭和十一、二年頃に日本で封切られた添え物の活劇映画には、筋が単純な為もあろうが字幕がつかなかったのだが、このタルマッジ作品にはいずれも字幕がついた。したがって筋がよくわかり、面白かったということもあるのだろう。だが、タルマッジの全盛期はやはり、なんといっても無声映画時代なのである。  リチャード・タルマッジ、もとはといえばダグラス・フェアバンクスの代役スタントマンであった。やがて独立して活劇映画に主演しはじめる。たちまち大評判。日本でもたいへんな人気者となる。たとえば大正十四年のキネ旬を見ると、人気投票の中間発表でハロルド・ロイドと同点で十位になっている(一位はダグラス・フェアバンクス、女優の一位はリリアン・ギッシュ、日本の男優一位は阪東妻三郎、女優一位は岡田嘉子)。タルマッジ映画、このころはエフ・ビー・オー映画というところで製作され、ユニバーサルが配給していた。  いくら人気があっても批評家は活劇俳優が嫌いだ。大正十三年に製作され、翌年日本で封切られた「突貫! 突貫!」原題「STEPPING LIVELY」を清水千代太氏がこう評している。「相変らずのリチャード・タルマッヂ映画であるが、痛快味の乏しい、少々愚劣に過ぎる駄作品である。嘗てはジウエルのスターだつたミルドレッド・ハリスが、人気落つれば是非もなや、リチャード・タルマッヂづれの相手女優と成り下つて、そぞろに哀れを催ほすばかりなのは気の毒である」。みもふたもない書きかただ。この大正十四年には他に「鉄壁突破」(TEARING THROUGH)」や「巨弾|霹靂《へきれき》(JIMMIE'S MILLIONS)」が封切られているが、いずれもキネ旬では批評が省略され、たとえば「巨弾霹靂」の場合は興行価値欄に「事件続出、リチャード・タルマッヂ氏得意の味ある活劇で、場面は軽いテンポで移つて行く。添物として興行価値多大な映画である」と書かれている。  翌大正十四年、輸入はユニバーサル・ピクチュアスから松竹に移り、キネ旬にはでかでかと「御記憶下さい。今後のタルマッヂ映画は全部松竹興行権把握全部浅草帝国館封切!」なる広告が出ている。儲《もう》かるタルマッジ映画、奪いあいだったのであろう。その松竹キネマ社輸入の第一回が「水陸百万人力(THE ISLE OF HOPE)」で、物語は例によって無人島の宝捜し。同年封切の「突貫王子(THE PRINCE OF PEP)」の広告は「天下無敵独歩の境地を占めるリチャード・タルマッヂ映画。盛夏映画界に君臨して、常勝将軍の栄誉を独占す」となっている。だがいくら客に受けても悲しいかなキネ旬の批評にはとりあげてもらえないのである。  米本国での人気はどうだったのだろう。大正十五年にエキジビタース・ヘラルド誌が全米の常設館に「最も興行価値あるスター」を問いあわせた結果、タルマッジは六十八票で三十位だった。今でも名を知られている俳優の順位を書くと、一位がコリーン・ムーアで二百七十八票、ハロルド・ロイド四位、ノーマ・タルマッジ六位、ダグラス・フェアバンクス八位、ロン・チェニー十三位、グロリア・スワンソン十六位。田村幸彦氏は「われらが渇仰の的チャールズ・チャップリンが第二十五位にあつてリン・ティン・ティンよりも三位下に奉られてゐるに至つては義憤を感じる」と、この投票の結果に怒っている。キートンはタルマッジより四票多くて、二十八位。三十位以下では日本で評判のよかったリリアン・ギッシュが三十九位、ジョン・バリモア四十四位、ヴァレンティノ四十五位、当時人気絶頂の筈のクララ・ボウ四十九位、ロナルド・コールマン五十二位、アドルフ・マンジュウ五十六位、ハリー・ラングドン五十九位。いかに三十位という位置が凄いか、おわかりになるだろうか。  翌昭和二年、「ブロードウエイの伊達男(THE BROADWAY GALLANT)」、「万難迎撃(DOUBLING WITH DANGER)」、「狂人大車輪(THE BETTER MAN)」と、エフ・ビー・オー社製作、松竹キネマ配給でタルマッジ映画の封切は続く。「狂人大車輪」は芳原薫氏により珍しくキネ旬で寸評されている。 「『画中総ての離れ業場面は皆主演者タルマッヂ氏自身の考案並所演に成る』ものの由。例によつてタルマッヂ独特の飛躍を見せて呉れる。殊に後半は目覚ましいものではあるが、要するに軽業的な点に興味を持つ映画である。助演のエナ・グレゴリーは可憐である。其の他言ふ程の事もなし」  日本ではこの後一年ほどタルマッジの消息は絶えていたが、突然昭和四年になって彼が独立プロを作ったニュースが入る。昭和三年にタルマッジ・プロダクションが製作した「独身倶楽部(THE BACHELORS CLUB)」は「独立第一回痛快劇到着!」として昭和四年に安川商会が配給している。前後してティファニースタール製作、マックス・ブランド原作の「黒騎士」を映画化した「カ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]リエ(THE CAVALIER)」も東西映画社提供で封切られた。キネ旬では「独身倶楽部」を村上久雄氏が「久し振りのタルマッヂ物ではあるが、矢張例の彼のスタンツに驚かされるに過ぎない映画である。それでも物語にいくらか興味はあり、助演の連中も相当に達者なので、何時ものタルマッヂ映画に比べて決して遜色はない。好感の持てるタルマッヂの若若しさが可成《かなり》此の映画の良き興味たり得てゐる」と書き、「カ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]リエ」を清水千代太氏が「リチャード・タルマッヂの軽業を見せる活劇としては良く出来てるものだ、といふことだけが言へる。そして軽業活劇を楽しめる人々にとつては定めて面白からう、といふことが推測される」と、奥歯にもののはさまった寸評をしている。せっかく褒《ほ》めておきながら興行価値欄では「これといひ、『独身倶楽部』といひ、第一流の映画劇場を以て自任する松竹座がタルマッヂ活劇をプログラムに加へることは、一概に言へぬことではあらうが、近頃『お寒い』現象である」などと書いているのは腹が立つ。  ちょうどこのころ益田甫という人がアメリカへ行き、上山草人の紹介でタルマッジに会ったことをキネ旬に書いている。「リチャード・タルマッヂがすばらしいロールスロイスでやつて来た。私達は上山さんによつて彼に紹介され、セットで一緒に記念の撮影をする。なかなか感じの好い好漢だ。フィルムでみると鳥人の名の如く軽快そのものゝやうな男だが、実際に見るとかなり肥つてゐて、鈍重な感じである。そしてひどく元気がない。あとで聞いてみると、脚部に非常に悪性な腫物をこしらへて、やうやく快方に向つたところださうである」。独立プロを作ったばかりで過労だったのかもしれない。だが車がロールスロイスであることによって彼の羽振りのよさがわかろうというものだ。  昭和四年タルマッジ・プロ製作の「タルマッヂの貧乏長者(THE POOR MILLIONAIRE)」が同年暮に封切られている。「カ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]リエ」もそうだが、この映画もタルマッジの二役である。二役が好きだったらしく、後年ぼくが見た四本の中のギャング物も双生児の役だった。この「貧乏長者」では善悪相反する性格の双生児を演じているが、キネ旬には批評が見あたらない。  以後ぞくぞくとタルマッジ・プロの作品が輸入され、上映されているが、もはやキネ旬には紹介すら見られない。たとえば昭和五年の六月だけでも大阪パークキネマで「海陸の覇者」、京都キネマクラブで「弾丸旋風児」、神戸松竹座で「剣戟武者修業」、広島昭和シネマで「幸運王タルマッヂ」が上映されているが、原題さえわからぬ。旧作かもしれないし勝手にタイトルを変えているようにも思える。昭和四年の暮、キネ旬に「消防手タルマッヂ(THROUGH THE FLAMES)」の広告が出ているだけである。米田商会のこの広告には「可愛い顔したタルマッヂ、涼しい眼をしたタルマッヂ」という文句が出ているが、まったくその通り、好感の持てる風貌だった。  トーキー時代がやってきた。タルマッジは急速に忘れられて行く。ただ、キネ旬には「リチャード・タルマッヂ氏は此度《このたび》アート・カラー社に入社し、八本の特作トーキーに出演することに決定したが、この映画は米国ティファニースタール社が配給権を得たので同社と契約ある東西映画社に今後続々入荷する事になつた」という記事が出ているが、それらしい映画が輸入された形跡はない。自分のプロダクションにはトーキーを作る設備がなかったのだろうか。  昭和六年の五月になってやっと一本だけ、「メキシコ(THE YANKEE DON)」というトーキーの西部劇が封切られたが、これはタルマッジ・プロの作品でスター・フィルム社の輸入だった。スチール写真で見るとタルマッジはコールマン髭をはやし、ギターなど弾いている。以後まる三年間、タルマッジ映画の輸入はない。  昭和九年の五月、突然ユニバーサルが同年製作の自社連続トーキー映画、十二篇二十四巻という「魔海(PIRATE TREASURE)」を輸入してきた。前記淀川氏はこの映画のことを言っておられるのだろう。「絶海の爆弾児」に似た海洋活劇だが、タルマッジの役はまたまた飛行士で、海だけでなく空に陸にと大活躍。もはやタルマッジの名など日本の観客からは完全に忘れ去られていたかというとさにあらず。面白さを知っている浅草など下町の客が名のみ伝えていたのだろう。これが大当りであった。キネ旬の興行価値欄には「東京館で素晴らしい当りをとつた連続活劇映画である。リチャード・タルマッヂの名は浅草の観衆に親しまれてゐるので、時代映画のスターの如き吸引力を発揮した。映出《ママ》には、レコードで『天国と地獄』の前奏を試みるや、観衆大喝采、以て浅草に連続映画ファンの多きが知れやう。猶、終始好調の入りを示してゐる」と書かれている。だが、あいかわらず批評は省略されている。  さらに三年後の昭和十二年まで、タルマッジ映画の輸入はない。十二年にはぼくの見た四本を含めて何本かが封切られ、そしてそれ以後、タルマッジの姿は見られなくなる。名前も消えて行く。タルマッジといえばノーマ・タルマッジか、せいぜいコンスタンス・タルマッジである。たとえ名作は一本も残さず、単純なストーリイの作品ばかりであったとはいえ、大多数の観客を熱狂させたあのようなみごとな体技と、ドタバタじみた活劇のアイディアを生み出したリチャード・タルマッジの名が、簡単に消えてしまっていいものかどうか。からだを動かさぬ演技者ばかりの、アイディアのない活劇ばかりの現在、タルマッジ再評価の気運を起したい気持は大いにあるのだが、残念なことにはフィルムがないのだ。映画というものの宿命であろう。 [#改ページ]  「巨人ゴーレム」  ゴーレムの話はもともとチェコの民話で、映画の初期から何度も映画化されたらしい。ほとんどがずいぶん古い時代の映画化であったらしく、調べようがない。ぼくが見たジュリアン・デュヴィヴィエの「巨人ゴーレム」原題「LE GOLEM」は何度めにあたるのだろう。それ以後ゴーレムが映画化されたという話は知らないので、おそらくこれが最後の映画化ではあるまいか。  シュルレアリストであるアド・キルーの書いた「映画とシュルレアリスム」(上・下巻・美術出版社)の中には、「つねにプラーグの錬金術師街に出没するおそるべき『巨人ゴーレム』」という一節があり、この一節に「私の知っている版では、ガレーン版とパウル・ウェゲナー版がもっともすぐれているが、U・ガッド版は見ていない」という但し書きがついている。してみるとデュヴィヴィエ以前に少くとも三本、ゴーレムは映画化されていることになる。ガレーンというのはF・W・ムルナウ監督「吸血鬼ノスフェラトゥ」のシナリオを書いたヘンリック・ガレーンのことらしい。パウル・ウェゲナーの「ゴーレム」は有名で、デュヴィヴィエの「巨人ゴーレム」公開当時、いちばんよく比較された名作。ぼくは以前デュヴィヴィエのゴーレムのことをある雑誌に書いたのだが、この時にはパウル・ウェゲナーのゴーレムの写真を併載されてしまった。U・ガッドというのはジョルジュ・メリエス時代の初期映画作家、デンマークのウルバン・ガッドのことであろう。アド・キルーはデュヴィヴィエのゴーレムにまったく触れていないが、見なかったのだろうか。それともシュルレアリスムの歴史に加えるべき映画ではないと判断したのだろうか。  デュヴィヴィエ作品の傑作で、日本では大評判になったのに、この「巨人ゴーレム」、名作映画としてはどの本にもとりあげられていない。ひとつにはこの映画、デュヴィヴィエがゴーレムの故郷チェコへ行って撮った作品(プラーグ・A・Bフィルム製作)だから、フランス映画史などには出てこないのかもしれない。  この映画は戦後大映系の映画館で上映され、ぼくは梅田地下劇場で見た。デュヴィヴィエなんて監督は知らない頃だから、むろんスペクタクル映画、怪奇映画への興味で見たのである。 「巨人ゴーレム」が製作されたのは昭和十一年、日本での初公開はその翌年の七月である。デュヴィヴィエとしては「地の果てを行く」のあと、「我等の仲間」の前に撮った作品である。物語はプラーグの古い伝説と、ヴォーコベク&ウェリクというチェコの二作家がそれに基づいて書いた話を、アンドレ・ポール・アントワーヌがデュヴィヴィエと共同で脚本にしたもの。パウル・ウェゲナーのゴーレムとはずいぶん「内容を甚だ異に(清水千代太氏)」しているらしい。  映画が始まってすぐ、ゴーレムの姿がちらりと出てくる。教会堂の密室の中でじっとしている巨大な土の人形である。このゴーレムには、ナチスによってドイツを追われたというチェコの舞台俳優フェルディナント・ハルトが扮《ふん》している。解説には「巨人俳優」などと書かれているが、メークアップが巧みだった為か、じっとしているとまるっきり土の人形としか思えなかった。こいつが暴れまわるのかと思い、ちょっとわくわくする。ところがなんと、それから全九巻のうち最後の二巻になるまでこのゴーレムは登場しないのだ。そもそもこのゴーレムとは何者か。キネ旬の略筋で紹介する。 「ゴーレムは一五六〇年、プラーグの大僧正レヴが創つた巨像である。然し、レヴは生前、ゴーレムに救ひを求めるのは秘密の合図、即ち猛獣の咆哮する時にのみ限ると戒めたのである」  というわけでゴーレムは最後の最後、その合図があるまでは立ちあがらないのである。ではそれまでの七巻はというと、ぼくはゴーレムが動き出すのだけを心待ちにしていたのでストーリイがまったく記憶にないのだ。ただし話そのものがよくできていたということだけは憶えている。 「ボヘミヤの王ロドルフ二世治下のプラーグは中欧に於ける最も怪奇と豪奢を極めてゐた都であつた。半ば芸術家で、半ば夢想家のロドルフ王は、この都に世界より珍しい芸術品を集め、また占星術師、錬金術師、その他の人達を招き、プラーグの都は一種神秘の雰囲気に包まれてゐた。然し、ロドルフ王は狂人でもあつた。彼は人々を信ぜず、脅迫感におびえ、時として惨忍と肉欲に身を投げ込むこともあるが、その後で忽ち孤独と不安とに自らおののくのであつた」 (画像省略)  狂王ロドルフを演じているのが名優アリ・ボール。この人この映画史に登場するのは「にんじん」「隊長ブーリバ」に続いて三度めだが、三作とも全部メークアップががらりと違うし、特にあのブーリバ役者が出演しているなど、ぼくはまったく気づかなかった。このアリ・ボールの演技を清水千代太氏はキネ旬試写評でこう書いている。 「映画は迫害されるユダヤ人を描くとともに、迫害者たる狂王ロドルフを描いて興趣を盛つてゐる。これはロドルフにアリ・ボールをキャストする関係上、此の役を大きく扱つたのかも知れないが、この芸術家的な、そして物狂ひの王様の生活は、それだけでも大きな興味を喚起するものであるから、恐らくこれは最初から意図された脚色であらう。アリ・ボールのロドルフは、豪壮にして細緻なところ、流石にその名声に反せぬ良い演技である。殊に狂乱の振りは、いつもの大芝居の癖を巧みに抑揚して、良い結果を挙げたのは、デュヴィヴィエの指導にも因るが、ボール自身もよく気分を出すといふ点に意を注いだ結果であらう、と思ふ。とまれ、このアリ・ボールは彼としても名演技であらうが、見てゐて好感の持てる演技は、名優でも常に演じ得るとは限らないもので、大いに褒めてもよいのではなからうか」  とにかく全篇、地下室だけで話が運んだような気がする暗い映画だった。このころはヨーロッパ映画というだけで暗い感じがあったのだが、この映画は特に暗い感じに撮ったのだそうである。撮影はチェコのヴァスラウ・ヴィックとヤン・シュタルリック。装置のアンドレ・アンドレーエフは「三文オペラ」を担当した名手。これにチェコの人らしいコペツキイが協力しているが、フランス=チェコ合作映画らしく、スタッフまで両者ごちゃ混ぜなのは面白い。  最初のあたり、まったく記憶にないので、ストーリイはキネ旬に頼るしかない。 「このロドルフ王は宰相ラングの手中にあつては玩具同然であつた。政治はラングが切り廻してゐた。然し、この時、ユダヤの民は圧政の下に、貧窮と飢餓に泣き、悪疫は流行してゐた。このユダヤの民の最後の希望は教会の一隅にあるゴーレムにかけられてゐた」  悪宰相ラングをロジェー・カルルが演じていて、清水千代太氏は「重厚な点でよい」と評している。ゲットーのユダヤ人たちが圧制に苦しんでいる場面はずいぶん多かったように記憶している。結局のところ物語の大部分が圧制描写だったわけであるが。 「占星者達は、やがてこのゴーレムがロドルフ王に叛《そむ》き、命を奪ふことを予言した。恐怖した王は宰相ラングに命じ、ラングは更に腹心の奉行フリードリヒ(ガストン・ジャッケ)をしてゴーレムを捕へさせようとした。然し、巨像に威圧された追手どもは逃げ帰る」  この部分、本来ならゴーレムの姿が出てきている筈なのに記憶していない。キネ旬興行価値欄には「かなり検閲の鋏禍《きようか》を蒙《こうむ》つたが」と書かれているのでカットされたのかもしれないが、特に検閲の鋏《はさみ》が入るシークェンスでもなし、不思議である。ただしぼくが見たフィルムも全九巻にしてはだいぶ短かったように思うので、大幅に鋏が入っていることは確からしい。 「ラングは今度は手を変へ、レヴの弟子ジャコブ(シャルル・ドラ)を招き、彼を甘餌で誘ふが、ジャコブはそれを拒む。ロドルフ王はジャコブを拷問にかけて、ゴーレムの秘密を自白させようと迫るが、ジャコブは遂に口を割らない。ジャコブの妻ラシェル(ジャニー・オルト)は、この地に来たフランスの宝石商トリニャック(ロジェー・デュシェーヌ)にすがり、王の寵姫《ちようき》ストラダ伯爵夫人(ジェルメーヌ・オーセエ)を通じて、ジャコブを出獄させる」  清水千代太氏は僧正ジャコブを演じているシャルル・ドラを「些か此の役には若過ぎるのではないか、と思ふが、演技は懸命にやつて居るのが気持が良い」と評し、その妻ラシェルのジャニー・オルトは「適役ではない」としている。宝石商のロジェー・デュシェーヌは「隊長ブーリバ」でブーリバの長男をやり、清水氏が褒めていた役者だが、ここでもやはり千代太氏によって「軽快な点でよい」と褒められている。また清水氏は「ジェルメーヌ・オーセエのロドルフの寵姫は、端役に近い役であるが、ロドルフとの閨房《けいぼう》に於けるシーンあたりは艶麗であつた。性的魅力も相当にある、と見た」とも書いている。鋏禍を蒙ったというのはこのベッド・シーンの辺なのかもしれないが、この昭和十二年頃になってくると、従来のエロチック・シーンだけにとどまらず、政治、社会思想の面での検閲もきびしくなってきているから、もしかするとナチス・ドイツに気がねしてユダヤ人迫害の方をばっさりやったのかもしれない。とにかくこの時代は、どこに鋏を入れたかさえ明らかにしてはいけなかったらしくてキネ旬には何も書いていず、どの部分がカットされたかわからないのだ。 「ロドルフ王は伯爵夫人の邸に移されてゐるゴーレムと、はからずも行き合ひ、この沈黙の巨像に言ひ様のない恐怖を感ずる。宰相ラングの手は再び動き、ゴーレムに関係ある人々を悉《ことごと》く獄に投じ、絞首台にかけることにした。そしてゴーレムも獄に入れ鉄鎖に繋《つな》いだ。だが、この時、獄中のラシェルは獅子の咆哮を聞き、ゴーレムの額に秘密の文字を書いた」  ゴーレムの出てくるこの辺からは記憶も鮮明である。獅子の咆哮というのは同じ獄中に飼われているライオンたちの咆哮だったと思う。ラシェルはこの柵《さく》を開く。それからゴーレムに駈け寄って、拾った小石でゴーレムの額に、ジャコブから聞かされていた文字を書く。たしか、「反逆は奴隷の権利」だったと思う。ゴーレムがくわっと眼を見ひらくところがすごい。鉄斎描く達磨《だるま》さんのような眼つきである。そしてごうごうと呼吸をはじめる。待ちかねていたことも手伝ってこちらはそのあまりの凄さにぞくぞくし、ラシェルは気絶してゴーレムの前にぶっ倒れてしまう。鉄鎖をぶちぶちぶちと切り落してゴーレムは、どす、どす、と歩き出す。その前後をライオンが何頭か、咆《ほ》えながらついて行く。牢獄の柱や壁をどんどん打ち砕いて歩いて行くゴーレム。たしか牢獄の丸天井も崩れ落ちた筈だ。そしてゴーレムは宮殿の中へ。 「忽ち生を得たゴーレムは、獄中から宮廷に踏み入り、あらゆるものを叩き破り、ラングを倒し、フリードリヒを踏み殺し、そしてゲットオの扉を押し破つた。ユダヤの民は解放された」  最初に殺されるのはフリードリヒである。剣で斬りかかるのだが、かちんと音がしてはね返されるだけ。押し倒され、足で頭を潰《つぶ》されてしまうのだ。ラングは室内を逃げまわるが追いつめられ、窓から抛り出されてしまう。宮殿になだれこむ群衆。ロドルフは気が狂い、廊下から廊下へとさまよっているだけ。 「ジャコブは使命を果したゴーレムを再びもとの粘土に返した。この時にマティアス大公の軍勢はこのプラーグに迫り、ロドルフ退位の報が市内に伝へられた」  ゴーレムを粘土へ返すくだり。ジャコブはまず小石を拾ってのびあがり、ゴーレムの額の字を消す。それから改めて「死」という字を書く。ゴーレムは眼をとじる。顔がぐにゃりと歪んでまず粘土に戻り、それからぱさぱさと全身が崩壊する。マントを残して土の上に盛りあがっているのは粘土というよりも砂の印象だった。本当に粘土を使ったのでは崩れにくかったのだろう。この映画そもそも、地下牢なのか牢獄の地面が土のままであったし、ライオンたちも土の上にいるし、壁は落ちて土になるし、ゴーレムは砂になるし、やたら砂埃《すなぼこり》っぽい映画であった。  さて昭和十二年初公開当時の景況は。  ゴーレムと獅子があばれまわっている大看板をあげた上、館前に眼を光らせ首をぐるぐるまわすゴーレムの人形(なぜか森永製菓のキャラメル大将と書かれている)まで立てたものだから、新宿武蔵野館は初日七月十五日の打込(午前九時)に三百人が並ぶ大盛況。浅草大勝館でも、スペクタクルの大好きな連中が地もと雷門の仁王様然たるゴーレムを見ようとして打込に四百五十人が殺到。丸の内帝国劇場でも、この館の常連たる知的なデュヴィヴィエ・ファンに加え、伝奇映画ファンも押し寄せ、二年前の「パンジャ」という猛獣映画以来の大当りになったというから凄い。  しかしこの大衆受けが芸術的価値を損ねたのか、試写室でこの映画を見た清水千代太氏はたいへんな褒めようなのに、なぜかその四号あとの批評欄では滋野辰彦氏がやたらにきびしく評価している。 「伝説の映画はなかなか容易ならぬ仕事であらう。殊にゴーレムのやうに土偶の巨人が動き出すのを、精細に見なければならぬ場合には、伝説は忽ちただの怪奇的見世物になつて了ふ危険があるからだ。デュヴィヴィエの演出は、さすがにゴーレムの動きにも、一通り以上の苦心は払はれてゐるやうだけれども、柱を押し倒し壁を壊して進んで行く描写では、やはり伝説といふよりもただの怪奇的興味に近いのである。はつきり言ふと、ここでは恐怖を感ずるよりも、笑ひたい方が先である。それまでが良ければ良いほどこの場面では莫迦莫迦《ばかばか》しさが先に立つのは私一人のことではなからう」  一方では、なかなかゴーレムが動き出さないのでしびれをきらせ、途中で席を立った観客もいたというから人さまざまである。ぼくにしても、もしゴーレムが暴れていなければこの映画史にとりあげてはいなかった筈である。もちろん清水氏もゴーレムの登場には肯定的だ。「このメイクアップは、昔のパウル・ウェゲナーのおかつぱのゴーレムよりも怪奇の気分をそそる点に於いて勝つてゐる。デュヴィヴィエが此の人造人間に与へた動きも妥当であり、ボリス・カーロフのフランケンシタインの怪物よりは、重々しく、力強く、且つ劇的存在としての役目を果してゐる」  映画全体の解釈も、滋野氏と清水氏とではだいぶ違っている。滋野氏が「デュヴィヴィエは単なる昔の伝奇映画といふよりは、認識の程度に異論はあれ、とにかく彼の『歴史映画』を創らうとする意図があつたにちがひない」としているのに対し清水氏は単に「まづ、此の映画のテーマが、虐げられたる民族ユダヤの反抗の叫びである」としている。ぼくもどちらかといえば、ゴーレム役者にわざわざナチスから追放された人間を使っている点その他、デュヴィヴィエの擡頭《たいとう》するナチスへの批判、世界への警告という解釈をしたいのだが、もう一度見ないことには断言できない。ただ、滋野氏の「歴史映画だ」という理屈にも説得力はある。 「前半でゴーレムを中心としつつ、ロドルフとユダヤ人の対立を冷静に描いてゐるのがそれである。(略)狂人ロドルフをデュヴィヴィエは同情を以て描いてゐる。この映画が生きてゐるのは確にこれに依つてゐるのだと、私には思はれる。もしこの王をただ惨忍な専制君主とした丈なら、多分この映画は普通のフランケンシュタイン映画と大して違つたところは無かつたのであらう。デュヴィヴィエは宗教と政治に目をくばり、狂へる王と圧制に苦しむユダヤ人に平等の同情を注ぎつつ、中世紀の伝統を描かうとした。その試みたるや壮大なるものである。然し彼はいつも身の周りの小さな現実を見てゐるのだ。いはばこの伝統を現代に生かす精神はあやふやである。ここに私にとつては、結局この映画が単なる伝奇とは言はぬまでも、後に残つた感銘がそれと大した違ひのなかつた理由がある」  冷静に見ている点では滋野氏に軍配をあげたいが、映画が本当に好きなのは千代太氏の方だろう。だが結局この映画、ほとんど忘れ去られてしまった理由としてはやはり単なる伝奇映画、せいぜいレジスタンス映画という解釈のまかり通ってしまったことにあろう。興行主にとっては客が入りさえすればよいので、余計な芸術性など無視して宣伝する。それもいけなかったのかもしれない。日本でもそうであった。芸術的なフランケンシュタイン映画もあり得ると主張したいがため、東和商事では広告に、白柳秀湖先生が早稲田大学新聞に書いたメチャクチャの解説を転載している。SF史を少し知っている人なら眼を丸くするであろうこの解説、昭和十二年ごろにはこうであったかとわかる史料にもなり、とにかく珍しいから引用しておこう。どこがおかしいか、変なところをかぞえあげてみるのも一興であろう。 「『ゴーレム』は又の名をロボットとも、フランケンシュタインとも呼ばれ、千九百二十一年にチェッコの作家チャペックが取材して、機械産業下に於ける現代の奴隷制度を諷刺してから俄に有名となり、日本でも上演され、筆者も曾《かつ》て元の有楽座で見たことがあった。又、独逸で作られた『メトロポリス』といふ映画も、この『ロボット』の主題を取扱つたものである。芥川龍之介が自殺する少し前に、筆者に書を寄せて、今、日本映画で忍術ものや、剣劇ものがひどく流行して居るのは、民衆がその無力を歎いても及ばぬところから、超人間的の強い力に憧れて居る一つの反映と見られぬこともあるまいといつて来たことがある。筆者は『ゴーレム』を見て直ちに芥川龍之介の手紙のことを思出した。日本の伝説の上に『ゴーレム』に似たものはないが、忍術ものと剣術とがある。『ゴーレム』の偶《ママ》意もその辺であらう」 [#改ページ]  エノケンの「ちやっきり金太」  覗《のぞ》きからくりのお囃子《はやし》台の上でエノケンが唄《うた》っているファースト・シーン。タイトル。カメラは覗き穴にズーム・アップ(撮影・唐沢弘光)。主演者の似顔絵(漫画・横山隆一)が次つぎにあらわれ、エノケンが紹介していく。「掏摸《すり》のナンバー・ワンだよ」とちゃっきり金太(榎本健一)を紹介したあと、「これは金太をつけ狙う岡っ引の倉吉つぁん(中村是好)だい」「上州屋の娘おつうちゃん(市川圭子)。金太のスウィートハートだよ」「飴屋《あめや》のお兄さん(二村定一)。実は徳川方のスパイだ」などと五、六人紹介する。  突然、1867とかなんとかでっかい年号の字幕がジャーンとあらわれてびっくりさせられる。原作・脚本・監督のヤマカジさんこと山本嘉次郎、SFが好きだったらしいから当時大評判だった「来るべき世界」か何かの真似をしたのであろう。つまり維新回天の業成らんとする時代の表現。ヤッパン・マルスのマーチに乗ってダンブクロの西軍兵士の行進。アナウンサー口調の解説。「然るに」などという、またでかい字幕。ここ江戸中村座では急を告げる戦雲をよそに今しも「ああそれなのに」を唄う娘たちの群舞。田舎侍どもの乱暴狼藉に江戸っ子たち、顔をしかめている。馬をつれこんできて、枡席の弁当を蹄《ひづめ》で揉《も》みくちゃにする田舎侍もいる。文句を言われた侍、よし金さえ出せばよかろうと大見得を切ったものの、あっ、財布がない。たちまちあちこちで、ない、財布がないという声があがり、時ならぬ掏摸騒ぎ。  この芝居小屋の雰囲気がじつにいい(装置・北猛夫)。今ではこういうシーン、撮影不可能であろう。芝居小屋のセットも無論だが、見物客になる江戸っ子連中や、財布を掏られる七、八人の田舎侍、群衆シーンなのにみんなうまいのだ。この「ちやっきり金太」はエノケン主演映画の中でも「孫悟空」と並ぶ大がかりなもので、登場人物もやたらに多いのだが、このころの俳優は端役に到るまで全員、江戸時代を演技で表現できた。  桟敷にすわっているのが薩摩の小原葉太郎(如月寛多)の一行「貴殿の財布は大丈夫か」と訊《き》かれて小原、「なあに、拙者《せつしや》のはちゃんとここに……」ない。  ※[#歌記号、unicode303d]ああそれなのに、と唄いながら溝へ次つぎと空財布を投げこみ、歩いていく金太、通りすがりの娘に投げあたえたり、すれ違った男の懐へ入れたりする。そのうち、商人風の男にぶつかった金太、※[#歌記号、unicode303d]しまったうっかりやっちゃった。江戸のおかたの持ち物を……。相手を呼び返して、※[#歌記号、unicode303d]返すのは、返すのは、あたり前でしょう。  居酒屋上州屋にやってきた金太。ここの親爺(柳田貞一)は金太の味方で、ひとり娘おつうは金太に惚《ほ》れている。「あいつは女嫌いだからあきらめな」と、父親に諭《さと》されるおつう。二階の丁半勝負に加わった金太はたちまちすってんてん。身ぐるみ剥がれてしまい、裸で階段をおりてくる。くしゃみをする金太。と、岡っ引の倉吉があらわれる。以後、金太がくしゃみをするたびに倉吉があらわれるギャグは何度もくり返される。  中村座の騒ぎは手前だろうと言われ、証拠があるんですかいと言い返す金太。証拠がなくて口惜しがる倉吉。「今に必ずとっつかまえて」「小伝馬町の牢へ叩っこむからそう思え、って言うんでしょうが。耳にタコができてらあ」  友田純一郎氏はキネ旬の批評欄で「マッカレイの滑稽探偵小説『地下鉄サム』に於けるクラドック探偵と掏摸のサム公のコンビとその性格を時代映画のなかに翻案したのがこの笑劇である」と書いている。  薩摩屋敷の長屋では小原葉太郎が国分勘兵衛(南弘一)、伊集院(小坂信夫)、南郷(斎藤稔)に、京都の笹本宝剣斎へ宛てた殿の密書を財布ごと掏られたと打ち明け、善後策を相談している。と、襖の蔭で物音。「誰かいるぞ」さっき唄がうるさいので追い払った筈の飴屋の三次が逃げていく。追いかける四人。二村定一はこの映画ではほとんどいい出場がなく、子供相手にさらし飴の歌をいい声で聞かせるだけだ。  やっと見つけた飴屋は人違い。ここで四人はばったり金太と出会《でくわ》す。おやあ、と首を傾《かし》げる双方。金太、へへへへと愛想笑いをしながら揉み手をし、二歩、三歩とすり足で後退してからパッと逃げ出す。エノケン得意の演技である。それっと追う四人。  追われて上州屋へやってきた金太、裏庭へ出ておつうにかくまってもらう。そこへ小原たちがやってきて、金太がここへ入るのを確かに見たと言い張り、家捜ししようとする。亭主は裏庭へ出る障子の前へ立ちふさがり、ぱっと尻をまくってあぐらをかき、片肌脱ぎになる。みごとな刺青《いれずみ》。ここで啖呵《たんか》をきる亭主。「おれを誰だと思ってやがるんでえ」柳田貞一、毎度のことながらこういうシーンでは実にいい味を出す。声も若わかしくて張りのある、まことにいい声である。エノケンに歌を教えた師匠だから当然だが。  そのあとが面白い。「切るぞ」と白刃をつきつけられた亭主、首をすくめ、がらり態度を変えてへへへへと笑い、急にぺこぺこしはじめるのだ。この部分の面白さ、柳田貞一の持ち味を知っている人ならこれだけでわかる筈なのだが。 「金太は二階にいます」と言われて駈けあがる小原たち。裏庭では金太から何気なく「厳秘」などと書いた密書を預るおつう。亭主は金太に言う。「江戸から逃げろ。見つかったら殺されるぞ」逃げていく金太。  旅をしている馬上の金太。呑気《のんき》に歌を唄っているが突然くしゃみが出る。驚いて振り返ると案の定倉吉が馬でつけてくる。馬を急がせる金太。  駕籠《かご》に乗っている金太。倉吉も駕籠でつけてくる。駕籠のスピード両者互いに速くなり、駕籠かきの人数も次第にふえてくる。ついにたまらず、駕籠からとびおりて走り出す金太。倉吉も駕籠を捨ててこれを追う。 (画像省略)  この辺までが第一話「まゝよ三度笠の巻」であり、次は第二話「行きはよい/\の巻」となる。そしてこの第一話・第二話が前篇で後篇がまた第三話・第四話に分かれている。なぜそんなややこしいことをしたのかよくわからない。これが封切られた昭和十二年ごろの映画館はまだ三本立てが多く、一篇の長さが一時間ほどである必要があって、前篇後篇に分けて上映されたらしい。それも、日劇など封切館では前篇を七月中旬、後篇を八月上旬に上映しているが、たとえば新宿映画劇場、東横映画劇場などではさらに前篇の第一話だけ、第二話だけといった上映をしている。連続活劇のような扱いをしやすいようにしたのであろうか。  一話が約三十分で、前後篇だと二時間になるのだが、ぼくが戦後に見たのは総集編であり、全体から約五十分をカットされて一時間十分だか十五分だかになっていた。したがって筋の通らない部分が多かった。それでも道中《どうちゆう》ものなので、さまざまなエピソードをカットしてもだいたいの話はわかる。キネ旬評では友田氏が「ギャグの豊富なことゝ、着想の機転は山本嘉次郎の笑才を誇るものであつた」と書いているが、ぼくはこの映画、さほどギャグの豊富さを感じなかったので、ギャグの部分がだいぶカットされているのかもしれない。喜劇映画を短縮する場合、筋を通すためにともすればギャグのシーンをカットするのは最近のテレビ局だけとは限らないようだから。  府中の宿では風呂に入っている金太を捕えようとした倉吉が女湯を覗いてしまい、出歯亀と間違えられる。中村是好という人、実際に出っ歯だから面白い。「らくだの馬さん」の舞台では、らくだになった是好、死んでいる筈なのについ笑ってしまい、歯が出てしまうので観客から「やあ、らくだが笑ってやがる」と笑われ、困ったそうだ。  この宿で金太と倉吉は相部屋となる。泊りあわせた巡礼姉妹のうちの妹娘のおゆき(山縣直代)が、無法な侍に部屋へつれて行かれる。姉娘おすみ(花島喜世子)に頼まれておゆきを取り戻しに行った二人は、逆に侍から白刃をつきつけられ、部屋中を追いまわされる。押入れへ逃げこんだものの袋の鼠《ねずみ》。押入れの前では「われこそは近藤勇」などと侍がわめいている。これまでと観念したか、倉吉が「今までお前を追いまわして悪かった。許してくれ」などと金太に言い、二人は仲良くなってしまう。  押入れの外には突然新撰組剣道指南役と称する一行三人の侍があらわれ、「近藤先生の名を詐称《かた》るとは」というのであべこべに無法侍がおどされた末、部屋へつれて行かれる。二人は命拾い。ここで倉吉はおすみに惚れてしまう。だがこのおすみ、実は遠州でくれん一家のマダムおすみという女賊であることを金太は見破る。「あんな女よせよせ」という金太。おすみも自分に惚れていると思いこんだ倉吉が「知らねえな」という。「知らねえな」と金太。「知らねえな」「知らねえな」  小原の一行が金太の人相書を持って府中の宿へ来たころ、金太、倉吉、おすみ、おゆきの一行は大井川の川止めに会い、島田屋に泊っている。金太はおゆきから、おすみとは実の姉妹ではなくただの道づれ、自分は母を亡くして父を訪ねる武家娘であると聞かされる。ふたたび金太と倉吉の掛けあい。「知らねえな」「知らねえな」「知らねえな」  大井川が氾濫《はんらん》し、島田屋の客が次第にふえていくが、この辺の描写も実にいい。旅人になる役者たちの群衆演技のうまさ。当時としてはなんでもないシーンなのだろうから褒めすぎかもしれないが、こういう雰囲気、今の映画では絶対に出ません。  小原の一行がやってきて島田屋に投宿する。金太は見つかり、またしても宿屋中を逃げまわるエノケン映画伝統的の大ドタバタ。金太は飴屋三次の部屋にかくまわれ、危く助かる。小原たちが部屋を出て行ったあと、三次が押入れを開くと床板をあげてすでに逃げ去っている金太。三次がなぜか「しまった」と言う。密書のありかを、彼も金太からさぐり出したかったらしいのだ。  翌朝、倉吉が起きると着物がない。金もない。ここの是好さんの演技がすばらしい。わざわざ衣紋掛《えもんかけ》をはずしてから着物がないといって驚く仕草は何回見ても笑ってしまう。片足を引きずるような独特の歩き方で部屋の中をうろうろ。「困った困った。裸で道中もなるまいし、かといって、まさか江戸の岡っ引ともあろうものが、盗られましたと訴えては出られないし」  友田氏も「俳優では、エノケンに次いで中村是好がいゝ。演技よりも特種の味を有してゐることが目立つた」と書いている。 「そうだ。おすみに金を借りよう」というので彼女たちの部屋へ行くと、なんとすでに出発したあと。「さてはあのおすみがやりやがったか」と、しょげ返り、眼をしょぼつかせる独特の表情。  街道ではおすみとおゆきに追いついた金太が、「おゆきちゃん、ご免よ」などと言いながら二人を縛りあげている。倉吉の着物や金をとり返され、罵《ののし》るおすみ。  ぼくの大好きなシーン。大井川の川開けというので次つぎと出立していく客でごった返している島田屋の帳場附近。大階段に宿屋の浴衣《ゆかた》のままで腰をおろし、茫然《ぼうぜん》とこの情景を見ている哀れな倉吉。その表情がなんともいえない。小原の一行も出立して行く。そこへ使いが入ってきて倉吉の名を呼ぶ。届け物は風呂敷に入った倉吉の衣服、財布。金太の書いた紙切れも入っている。「鼻の下御用心! 金の字」  ここまでが前篇に相当する部分である。といってもキネ旬の紹介欄によれば前篇はまだ続き、おゆきこそは笹本宝剣斎の息女小雪であることがわかったり、金太がマダムおすみの一味に捕まったり、というシーンがあるそうだが、総集編ではカットされている。  この調子ではとても書き切れないので、後篇の部分は少しスッとばして書いていこう。カットされている尺数もこちらの方が多い。  さてシーンは大井川の会所。ここへやってきた金太と倉吉。金太は見張りの岡っ引の財布を掏り、倉吉の懐中へ入れてしまう。哀れ倉吉は現行犯として引っ立てられる。なぜ金太がこんなことをしたのかよくわからないが、カットされたその前のシークェンスに関係があるのだろう。倉吉は疑いが晴れてまた金太と一緒になる。  ふたたび府中の宿。よくわからないが、どうやらおつうに預けた手紙が大事なものとわかり、大井川から引き返したものらしい。この宿では金太と倉吉が喧嘩をはじめ、隣室の浪人者が仲裁に入る。侍や宿の女中数人を加え、その夜は大宴会になる。枕投げとでもいうのか、枕を投げまわしながらひとりずつ別の唄をうたうという遊びをやるのだが、※[#歌記号、unicode303d]花は霧島煙草は国分だの ※[#歌記号、unicode303d]パピプペパピプペパピプペポ、うちの女房にゃ髭があるといった当時の流行歌を片っぱしから歌うのである。(音楽・栗原重一)この映画では、エノケン得意のジャズ・ソングの替え歌は出てこない。  翌朝|眼醒《めざ》めると二人の着物と財布がなく、隣室の浪人者はすでに去ったあと。二人はくしゃみをしながら宿屋の浴衣を着ての文無し道中。ついには乞食《こじき》のような哀れな姿となり、寝る場所を求めてもぐりこんだ小屋の中では骸骨《がいこつ》のお化けにからみつかれて目をまわす。旅の女歌舞伎一座の奈落《ならく》だったのである。座長市川多喜枝(千川輝美)以下女役者連中、この騒ぎに降りてきて、二人のだらしない姿に大笑い。かくて二人は一座の働き手となる。このあと、二人が舞台に立つシーンもあったらしいがカットされていて、以上で第三話「帰りは怖いの巻」が終る。  第四話は「まてば日和の巻」。一座と別れた金太と倉吉、河原へさしかかると小原の一行がばらばらととび出してきて金太をとりかこみ、斬ろうとする。腰を抜かす倉吉。金太が川の中へ追いこまれて四人に囲まれ、あわやという時、また飴屋があらわれて石を投げ、金太を救う。金太の手を引いて走りながら三次が叫ぶ。「さあ。おれをその密書のあるところまでつれて行け」  江戸は彰義隊騒ぎのまっ最中。避難する市民の荷車でごった返している。上州屋でも、金太さんが戻ってくるからといってしぶるおつうを、亭主がなだめすかし、鮫洲《さめず》の仮小屋に避難する。この鮫洲の混雑の中でおつうは倉吉とつれ立って歩いて行く金太をちらと見かけ、あとを追おうとするが兵士の行進に遮《さえぎ》られてむなしく金太の名を呼ぶだけ。  兵士以外は江戸市中へ入れないと知り、金太と倉吉はダンブクロの西軍の兵士になりすまし、隊の最後尾にくっついて行く。「休息」の号令。他の兵士は五人ひと組で銃を立てるが、金太と倉吉の二|挺《ちよう》の銃だけではなかなか立たないというギャグ。もたもたしていると隊長がやってくる。「お前たち、いつこの隊へ入った」金太の弁明。「あっしは、いえ、おいどんは、ついこの間入隊したんやさかいに新入りでごぜえますだよ。へえ」このごちゃまぜ方言には爆笑する。今でも新しいギャグであろう。  おつうは金太を待つためこっそり上州屋へ戻り、がらんとした店の中にいる。その前を行進して行く一隊。金太、倉吉は上州屋に入ろうとするが隊長に急《せ》かされ、追い立てられる。上州屋へは小原たち四人が押し入り、おつうを連れ去ってしまう。馬上の侍となった飴屋の三次は、金太におつうの大事を告げ、倉吉も一緒に馬に乗せて薩摩屋敷へ駈けつけ、小原一味と斬りむすぶ。ところへどかーんと砲弾一発。この辺は二村定一と如月寛多のチャンバラもアチャラカだし、砲弾であがる煙もちゃちくさい。  くずれ落ちた柱や壁の間から、おつうに抱き起されて金太が顔を出し、きょとんとしてあたりを見まわすところでクライマックス・シーンの終り。  と、ふたたび字幕である。「かくて、明治二十年」  文明開化の東京。洋服の金太と女唐服のおつうが腕を組んで歩いている。ふとすれ違った紳士のポケットから金太は金時計を掏る。とたんにくしゃみが出て、前方に立っているのは巡警姿の、今は髭を生やした倉吉。倉吉が追ってくる。──逃げる。ちゃっきり金太は逃げる。  例によって封切当時、上映館ではエノケン映画の威力で大入りに次ぐ大入りだったそうである。キネ旬によれば日劇など「あまりの馬鹿当りに、何が原因でこうも客が来るものかと当事者側が却つて面食つてゐる始末」だったという。戦後、ぼくがこの映画を見に入ったのは天五中崎通商店街の旭座、千日前の南地映劇などである。吹田東宝でも見た記憶がある。前後七、八回は見ているだろう。ギャグが少く、笑うところもあまりなかったのだが、エノケン映画に代表される明るい賑やかな雰囲気に餓えていたのかもしれない。すでに見ていても、エノケンの看板が出ているとなんとなく気になり、行く先ざきで入館してしまった、ということもいえる。さらにいうなら、ぼくはこの「ちやっきり金太」を三歳の時に親につれられて見に行っているので、その懐しさもあったのだ。むろんどこで見たか、誰と一緒だったかは記憶していない。ただ、総集編ではカットされていたものの、女賊おすみが小橋の上で鉄砲の弾丸にあたり、そのまま下の堀川へざぶーん、という凄絶なシーンがあったから後篇だったのであろう。総集編にしても、大幅にカットされていながら、話そのものがよくできていたのでストーリイはよくわかり、エノケン映画のムードは全篇にあふれていた。エノケン映画の代表作と言われる理由もその辺にあるのだろうか。友田純一郎氏などは当時のキネ旬でべた褒めである。「笑劇的な面白さはマッカレイ君の小説を凌駕《りようが》してゐると言つてよろしい」「成功の半は、山本嘉次郎の才腕に帰す可きであるが、一方又サムたり、クラドックたり得る個性を有してゐたエノケン、是好のパーソナリティが有力に作用してゐたことも忘れてはなるまい。と思はれるほど、演出者は笑劇俳優としてのエノケンを生かし、エノケンも又かつてない魅力を放つてこの映画のなかに躍動してゐるのである」「歌ふエノケン、踊るエノケン──即舞台に於けるエノケンのミュウジカル・コメディに適した独特のパーソナリティはこの映画のなかに見ることは出来ないが、必ずしもその故を以てこの映画及びエノケンを没し去ることは至当ではない。彼の踊り、彼の唄がなくとも、江戸つ子のスリに扮したエノケンは快捷且愛嬌のある存在としてわれ/\の笑ひを充分に誘ふのである」「その意味で、この映画は最近の日本映画のなかではエンタテインメント・ヴァリュウのもつとも豊富な作品であると思ふ」  友田氏はこの批評を、第一部と第二部だけしか見ないで書いているのだが、「後半(第二部)に入ると追ひつ追はれつのシチュエーションの反覆がそろそろ鼻についてきてゐさゝか倦怠《けんたい》を催すが、それも束の間に終つてしまふ。従つて、後篇は前篇第一話ほどの新鮮な興趣はないと予想されるが、僕は又見にでかけてなにがしか笑ひたいと思つてゐる」とも書いている。 「山本嘉次郎の演出は実に才気に富んでゐる。日本トーキーでは快適なペースを誇る笑劇は不可能かと思はれたが、彼はきれいにそれをやつてのけてゐる。そして、エノケンが彼と離れてはかくまで生彩を放たないのではないかと思はれるほどエノケンの笑劇的個性を射あてたかたちである。エンタテインメントを企する演出者として日本映画では確かに一流の腕前である」  そして興行価値欄。「最近の東宝商品中の傑作。分割上映もよく、短篇映画館なぞにも適当」  前後篇二時間をじっくりと見たいものだが、もはや完全なフィルムはどこにもない。総集編を作る際、残りは捨てられたのだろう。結構客を呼ぶ映画でありながら、そして充分会社を儲けさせておきながら、喜劇だというので軽視され、便利がられ重宝がられて大幅に短縮され、二度、三度のおつとめを果たし、ズタズタになるまで酷使され、ついには捨て去られ、忘れ去られる。いちがいに喜劇映画のフィルムだけの宿命とは言えないような気がするのだ。 [#改ページ]  「海の魂」  忘れもしない中学一年の冬だ。休み時間、教室にいると、別のクラスの女生徒で三木寿満子という、東第一中学一番の美人がドアのところで「筒井さん。筒井さん」とぼくを呼んでいる。話したことこそなかったが特別教室で一緒だったからお互いよく知っている。どきどきしながら行くと、なんのことはない。「校長先生が呼んでおられます」  この時ちょっと厭《いや》な予感があったかどうか、よくは憶えていない。あったかもしれないが、この時の校長先生堀勝氏(渾名はトンカツ)は前にも話した通り中大江小学校の時の校長先生でもあったし、特別教室の時の責任者でもあったし、さらには父親とも大阪市役所の教育委員会で一緒、当然ぼくのこともよくご存知である。また父親への伝言でも頼むのだろうとたかをくくって校長室に入って行くと、なんとそこには当の父親が来ているばかりか、堀校長と一緒に、クラスの担任で国語の担当の島津先生もいる。島津先生にも特別教室以来ずっと教わっている上、この人も父親とは教育委員会で顔見知り。この三人が揃っているからにはさては悪事が露見したかと悟り、ぼくはすっかり覚悟を決めてしまった。  ちょうど母親の着物を三枚、続けさまに売りとばしたばかりだった。また、その日から数週間前だったと思うが、前夜箪笥の上に投げあげておいた着物のうち、とてもいい値では売れそうにない経《きよう》帷子《かたびら》じみた白いぺらぺらの着物を、抽斗《ひきだし》に戻すのも面倒でそのままにしておいたのを発見した母親が、「あれこんなとこになんでこんなもんが」とぶつぶつ呟《つぶや》いているのを聞いている。そもそもばれない筈はなく、いつかはばれるものであることは自分でわかっていた。  父からどのように尋問されたかこまかいことは忘れてしまったが、母親の着物を持ち出したことはわりあいすらすらと白状した。ないのが発見された(?)のは最初に持ち出した絞りの羽織だけ。あとの二枚については問い質《ただ》されなかったので勿論自白はしなかった。問題はそのあとである。誰に着物を売ったかを白状すればあの天然パーマのお兄ちゃんにも累《るい》が及ぶわけで、何よりも数十冊という多くの書物を売っていたことや他の二枚の着物のことまでがばれてしまう。ここはなんとかうまく隠し遂《おお》さねばならぬ。一世一代の大嘘《おおうそ》をついた。この嘘はまだ誰にも話したことがないから、現在でも父親はまだ嘘と気づいていないだろう。尤《もつと》もこのエッセイを読めば三十年目にして真相を知るわけであるが。 「不良少年に脅されて、お母さんの着物を持ち出し、渡しました」「どこの学校の生徒だ」「わかりません」「年ごろは」「ぼくより一、二年上だと思います」「ひとりか」「いつも四、五人のグループを組んでいます」「どこで知りあった」「難波のローラー・スケート場です」  ためらいなく、実にすらすらと嘘が出てきたのは、別段この時にそなえて嘘を考えていたからでも何でもない。そのほんの数日前、島津先生が教室でクラス全員に話したことを思い出し、それを利用しただけである。 「そやからわしがこの間言うたやろ」と、島津先生。「頭の良《え》え子ほど不良につけこまれるのや」敗戦後の混乱期で町をうろつく不良少年は多く、実際わが校でも多くの生徒がかもられたり、たかられたりしていたのだ。  ついでに言うならローラー・スケート場で知りあったというのも、ローラー・スケートを見ていた少年時代の島津先生が下駄を盗《と》られたという教室での話(柵に凭《もた》れてローラー・スケートを見ていたら右の足が痒《かゆ》くなった。左足で掻くと今度は左足が痒くなる。右足で掻く。ふと気がつくと新品の下駄が古下駄にすり替えられていた)からの連想による思いつき。「そう言やあローラー・スケート場の話もしたなあ」と島津先生は憮然《ぶぜん》たる顔つき。大人三人、ぼくが嘘をついているとは夢にも思わなかったようだ。これには、まさか育ちの良い中学一年生に着物を売りとばす才覚などあろう筈がないという思いこみや、そう思いたい願望も潜在したのであろう。こちらはそれを利用して被害者面を押し通し、悪いのはあの不良少年連中とばかりさらに嘘を並べ立てたのだ。おかげで大人達の話はその不良少年対策の方に向かい、こちらはそれ以上責められなかったものの、なんのことはない不良少年は自分なのであった。 (画像省略)  さて今回のこの「海の魂」だが、この映画だけは、父の本や母の着物を売った金で見に行ったのではない。従姉に奢《おご》ってもらって見たのである。この寿世さんという従姉は父の長兄、つまり五代目筒井嘉兵衛の長女である。ひとり娘だから本来なら親の選んだ、家業を継いでくれる人材を婿にとらねばならないのに、モダンなタイプの美人だったから大恋愛をした末、家出騒ぎまで起して意志を貫いた。当時にしてみれば不良娘だったわけで、そのせいか、ぼくよりも十歳以上年上だが昔からなんとなく気が合った。親戚の中ではずいぶん逸話の多い女性で、結婚前の娘時代、親戚の集りで狂女の真似を実に巧みに演じて見せて皆を驚かせたり、家出する時はありったけの着物を着こみ、膨れあがって出奔《しゆつぽん》したなど、今でも語り草になっている。結局相手の進さんという男性は、養子になり筒井姓を名乗ることになって一件落着、現在に到るまで東京久ヶ原に住んでいる。この映画を一緒に見に行った時彼女はすでに結婚して東京にいたのだが、戦後たまたま大阪まで遊びにやってきてわが家に泊っていたのである。映画を奢ってあげるというのでついて行ったものの、この再上映ものの「海の魂」、ぼくにはあまり食指の動かぬ映画であった。梅田グランドでずいぶん前から上映していることは知っていたのだが、どうやら深刻な感じの海洋活劇らしい。同じ活劇でもタルマッジやエロール・フリンならドタバタ調や軽業で喜ばせてくれるのだがリアリズムの活劇は好きではなかったのである。案の定、見終ってさほどの感銘はなかった。従姉の方は、これはもう涙もろいのですぐ泣いてしまい、帰途、しきりにハンカチで眼を拭《ぬぐ》っていたものだ。この人はだいたいすぐに泣くひとで、十年ほど前の話だが母と一緒に文士劇を見に行った時でも、藤本義一が死ぬ場面で泣いたというから驚く。  パラマウント映画「海の魂」は本国で発売されたのが昭和十二年の九月、日本での最初の封切はその年の十月一日だから、製作されてすぐ輸入、公開されたことになる。ずいぶん何カ月も前から宣伝されていたらしく、当時のキネ旬誌上には半年ほどの間パラマウント支社による広告がのべつ出ている。大作だったのである。監督はヘンリイ・ハサウェイ。原作テッド・レッサー。脚色グローヴァ・ジョーンズ、ディル・V・エヴェリイ。撮影チャールス・ラング・ジュニア。音楽ボリス・モロス。当時のパラマウントの最高のスタッフだという。従姉のお目あてはもちろん、主演のゲイリー・クーパーであった。十数年前の初公開の折には見なかったらしい。  キネ旬略筋。「一八四〇年四月の或る日、フィラデルフィアの法廷は一世の視聴を浴びて、年若い船長ウイリアム・ナギン・テイラー(ゲイリー・クーパー)の公判が開かれてゐた。罪名は海上での殺人罪である。英国から派遣された特別弁護人ウッドレイ(ジョージ・ザッコ)はテイラーの為に委《くわ》しく事情を述べるのであつた。場面は遡つて、──テイラーとパウダ(ジョージ・ラフト)は奴隷船の船員だつた」  ここでジョージ・ラフト登場、クーパーとは初顔合せである。すでに「ボレロ」や「ルンバ」で堂々主役を演じたラフトも、ここではクーパーの引立て役をしている。とはいえ儲け役であり、そもそもこの映画、半分はテイラーとパウダの男の友情物語で、従姉が泣いたのもそこのところだ。クーパーの相手役に大物スターを持ってこなければならなかった理由でもあろう。清水千代太氏はキネ旬試写評で「ナギン・テイラーとラフトのパウダとの友情は『平原児』のワイルド・ビル・ヒッコックとバファロー・ビル・コディとの友情よりも、流石によく描けてゐる。(中略)パウダは無教育の船乗りであるが、根は善良で、ロマンチックな夢も抱いてゐる──これはジョージ・ラフト型に、脚本は抜け目なく出来てゐる。(中略)このパウダはワキ役であるから、彼としては楽な気持で演じたであらうし、悪くないものである。それどころか、船員のキャップを被つたプロフィルなどは、颯爽《さつそう》たる男ぶりで、クーパーとは別な男性的な美しさを出してゐる」と書いている。ラフトだけではなく、この映画は大作だけあって、宣伝では著名俳優だけで六十名を越すなどと書かれている。だが、いくらぼくが昔の俳優の名をよく知らぬとはいえ、これはちと誇大宣伝であろうくらいはわかる。 「所がその奴隷船に反乱が起つて船長グレインリイ(スタンレイ・フィールズ)が殺され、テイラーが代つて船の指揮を執る事となつたが彼は哀れな奴隷を売渡すに忍びず、奴隷全部を逃がして了つた。英艦の士官タリトン大尉(ヘンリイ・ウイルコクスン)は奴隷商のグレインリイ一味と結託してゐた為、自分の素姓の曝露されるのを恐れ、テイラーとパウダの二人を死刑にしようとしたが二人は証拠不充分の為、リヴァプール帰着の上釈放される事となつた」  この映画を見た人ならいちばん鮮明に憶えている筈のシーンがここで出てくる。奴隷を逃がした罰としてテイラーとパウダが帆桁《ほげた》に宙吊《ちゆうづ》りにされる場面だ。ぼくはなぜかここのところ、両手の拇指《おやゆび》をくくられて吊るされたように記憶していて、痛いだろうなあと思っていたのだが、よく考えてみれば拇指だけでは身体の重みで引っこ抜けてしまう。スチール写真をよくよく見ればやはり、くくられているのは勿論のことだが手首だった。ここのシーンを千代太氏は「このシーンは撮影技術の優秀さで素晴らしい効果を出した。夕陽に向つて進む船影を逆光線で撮つた海のシーンと共にこの映画での最も美しい撮影であつた」と褒めている。  この部分で、テイラーの行動に関心を持って彼をリヴァプールへつれて帰ろうとする英国船船長マーチゼルを演じるのはギルバート・エメリイ。また、サイレント時代に人気があり何本も主演作品のある二枚目モント・ブルーが「MATE」という役柄で出て来たらしく、配役序列《ビリング》十六番目に名が出ているが記憶にない。この人は気の毒にもトーキーになってから脇役ばかりになり、昭和三十八年、心臓麻痺で死んだ時にはサーカスの切符売りまでしていたという。  さて「所がその奴隷船の中から重要な証拠書類が発見され、それによつて英国諜報部はテイラーを死んだグレインリイ船長の身代りに立て、彼をサヴァナに派遣して奴隷商一味の秘密を探り出し、是を掃蕩《そうとう》する事となつた。一方その証拠書類の中からタリトンを奴隷商一味が除け者にしようといふ手紙を発見した事を知つたタリトンは一策を案じて自分は軍籍を退き、ペコラ(タリー・マーシャル)と結んで、その日アメリカに向け出帆するウイリアム・ブラウン号を秘かに買収、それによつて一儲けし様と決心した。タリトンの妹マーガレット(フランセス・ディー)は兄がアメリカへ行く事を知り、女中のバプシイ(オランプ・ブラドナ)と同船して、自由の国アメリカへ旅立つことゝなつた」  ここでクーパーとフランセス・ディー、ラフトとオランプ・ブラドナの二組のラブシーンが船上で交互に演じられる。フランセス・ディーは、キャサリン・ヘプバーン主演「若草物語」でメグを演じたばかりで売り出し中だった娘役女優。オランプ・ブラドナはこの映画と同じころ封切られたドロシイ・ラムーア主演「マドリッド最終列車」でデヴューしたばかりだが、スペイン女の情熱を体現した演技力を早くも認められはじめていた女優である。だが女性二人はこの映画では、千代太氏の言う如くやはり「彩りに過ぎない」のである。つまりラブシーンそのものよりも、テイラーとパウダの二人がお互いに、恋人を想《おも》ってもの思いにふけっていたりする相手に対し、 (楽譜省略) というメロディの歌で冷やかしあい、観客を笑わせるところがミソなのだ。この船の船長になるのがジョン・フォードお気に入りのハリー・ケリーである。また、ペコラを演じたタリー・マーシャルをキネ旬批評欄で村上忠久氏が「端役ではタリー・マーシャルが印象に残つた」と褒めている。  いよいよ最後のクライマックス。それまで平和だった航海も、少女のティナ(ヴァージニア・ワイドラー)がランプを倒したので火災が起り、これがきっかけで船中は大混乱に陥る。テイラーとタリトンの格闘。バプシイと船長は死んでしまう。テイラーは船長にかわって指揮をとる。 「僅かに残された一隻のボートで逃れ出すべき人を選んでゐると又タリトンが襲ひかかつて来たので、彼はタリトンを海に投じて殺し、マーガレットを無理にボートに乗せ、自分は船と運命を共にしようとしたが、パウダの為にボートに落され、パウダは沈み行く船と運命を共にした」  船室で死んでいるバプシイのところに戻って彼女を抱き、船と共に沈んで行くパウダ。この部分はなんともいえずロマンティックで、奇妙なエロティシズムがあった。 「已《や》むを得ず彼はボートを救ふ為、更にボートに乗込んだ数名を海に投じたが、それがマーガレットの怒りを買つて殺人罪で告訴されたのであつた。かくして法廷で始めてテイラーの処置が当然だつた事が明かにされ釈放された彼は自由の天地で愛するマーガレットを抱くことが出来た」  出演者は他にロバート・カミングス、ポーター・ホール、ジョセフ・シルドクラウト、ルシアン・リトルフィールド、パウル・フィックス。オーケストラ指揮はジョン・レオポルドである。  十月一日からの有楽座のプレミア・ショウは大変な人気だったらしい。漫画二本にニュース、日劇ダンシング・チームの踊りを添えての一本立て興行(昔はこれでも一本立てと呼ばれ、珍しかった)にもかかわらず、しかも七十銭と一円五十銭という強引な入場料にもかかわらず観客は殺到したという。  大阪道頓堀の弁天座では九月三十日から上映したが、ここも漫画と短篇を添えただけの一本立てなのに「外画の輸入禁止と言ふ事も手伝つたのか連日怖ろしい様な入り」だったそうである。 「外画の輸入禁止」とは何か。実はこの昭和十二年には洋画の輸入制限が行われたのだ。その年いっぱいはもう洋画を輸入してはならぬというもので、九月九日を以て公布された「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」の第一条「政府ハ支那事変ニ関連シ国民経済ノ運行ヲ確保スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ物品ヲ指定シ輸出又ハ輸入ノ制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得」のことである。たとえ制限が緩和されても、以後は許可制ということになる。しかも輸入許可を必要とする物品は《イ》輸入額の巨額にのぼるもの、(ロ)不要不急品、奢侈《しやし》品、国産品によって代用できるもの、(ハ)世界的に供給不足で暴騰の虞《おそ》れあるものの三種類。映画業者として心配になるのはいうまでもなく《ロ》である。映画業界では大騒ぎになった。すでにきびしい映画統制を行っているので有名であったドイツ、イタリアの模倣をしたわけであり、キネ旬では岩崎昶氏がこれを怒り、「今日の新聞で見ると、内閣はいよいよ『宣伝省』を新設しようといふプランを持つてゐるさうである。かうして、和製ゲッベルスなどが生れるやうになると、映画統制はいよいよナチ張りになるだらう。(中略)そのゲッベルスが一九三三年四月宣伝相に就任して以来、映画についてどのやうな事をして来たかは周知の事で冗言を要しない。即ち『非アリアン的な』分子を排斥《はいせき》して、真にドイツ的なるものを顕揚し──この辺、『日本的なるもの』とか『国民文学』とか、日独東西相呼応してゐることに御注意!──これを人間的には先づユダヤ人その他の外国人を映画界から追放し、反ナチ的なフライデンカー(筒井注・自由思想家)達を放逐し、内容的には自由主義的な思想を根絶しナチ・イデオロギーの宣伝を映画の最大目標としたのであつた」と書いているが、このころはまだ、この程度なら書いても大丈夫だったのだろうか。  このころからぼつぼつ、アメリカ映画の輸入本数が少くなってくる。戦前大きく広告されていながら、ついに戦後まで公開されなかった映画がこれ以後ふえてくるのである。 [#改ページ]  「キング・ソロモン」 「キング・ソロモン」は戦後、フィルム不足を戦前のヨーロッパ映画の再上映でしのいでいた大映系の映画館で上映されていた。ぼくはこれを国鉄天満駅裏の錦座で見た。フィルムの明るさと、ポール・ロブスンが主演しているところから、てっきりアメリカ映画だと思っていたのだが、実はさにあらず、イギリスはゴーモン・ブリティッシュの映画であった。原作は言うまでもなくH・ライダー・ハガード。ところがこの映画が初めて公開された昭和十二年には、今でこそ有名な秘境冒険小説の王者ハガードの名もまだ日本では知らぬ人が多かった。キネ旬試写評欄でこの映画を評している飯田心美氏もよくご存じなかったらしく、こう書いている。 「一昨年度、米国RKOラヂオで作られた映画に『洞窟の女王』といふのがあつた。シベリアの北端に架空の洞窟を設置して、幻妙なる物語が展開される夢のやうな映画だつた。その原作者の名はライダー・ハガードと称し、聞くところによると英国の文士だといふ。そのハガードの原作が、また一つ映画化された。それが此の『キング・ソロモン』である。御多分に洩れず『洞窟の女王』と非常に相似た構想がこゝに繰返されてゐる。シベリアを舞台とした『洞窟の女王』にひきかへ、今度は亜弗利加《アフリカ》が舞台となつてゐる」 「洞窟の女王」だって原作の舞台はアフリカなのである。勝手にシベリアに変えたのはRKOラジオの都合だったのであろう。  自慢ではないがぼくはこの映画を見た時すでにハガードを知っていた。家にはアルス社の日本児童文庫が揃っていて、二冊ずつひとつの函《はこ》に入っていたこのシリーズの、たしか「世界探険物語」とかいった一冊の中に「ソロモン王の宝」とかなんとか題して抄訳が載っていた。「洞窟の女王」の方も、サバチニの「スカラムッシュ」と同じA6判ハードカバーの叢書《そうしよ》の一冊として完訳本が家にあった。中学時代にはすでに両方とも読んでいたのである。面白さは承知の上だから封切を待ちかねて見に行ったが、さほど印象に残っていないし、一度しか見なかったところから考え、どうやら気に入らなかったらしい。  ストーリイはご存じのことと思うが、知らぬ人の為に、キャストを書き加えながらキネ旬略筋欄をご紹介していこう。とばし読みしてくださってもよろしい。なお、原題は「KING SOLOMON'S MINES」である。 「英国人オブライエン(アーサー・シンクレア)は娘ケイシイ(アンナ・リー)と共にアフリカへ渡り、キムバレー地方で金剛石の発掘を企てたが資金に窮し、帰国を決心して海岸へ道を取つた時、アフリカの案内者アラン・クォーターメイン(すでにサーとなったセドリック・ハードウィック)に会ひ共に旅を続けた。途中で瀕死のスペイン人を介抱し臨終の時に『ソロモン王の宝窟』といふ言葉を聞き、懐中からその地図を発見した。親子はアランと別れ黒人ウムボパ(ポール・ロブスン)を雇つて宝窟へ危険な旅を続けた」  ぼくはポール・ロブスンをこの映画及びデュヴィヴィエの「運命の饗宴」の最後のエピソードにおいて、前後二回見ているだけだが、猛烈な低音という形容がぴったりするその歌声はすばらしかった。もともとは黒人バス歌手であり、「ショウ・ボート」など映画にも主演し、当時日本にも名はよく知られていた。この「キング・ソロモン」でも二曲歌っている(作詞エリック・マシュウィッツ、作曲ミッシャ・スポリアンスキイ)。この歌を飯田氏は「彼の役は、その昔栄えたソロモンの後裔《こうえい》で、いまは逆境にあるズルー族の一人、白人探険者の道案内をしながら昔日の栄光を挽回せんとしてゐる土人である。その土人の歌を得意のバスで唄ふのだが、大自然に托して唄はれる蛮族の哀傷がにじみ出てゐる」と評し、キネ旬批評欄では内田岐三雄氏が「映画中、ロブスンの歌ふ二つの歌、道を行く歌と山を登る歌とは、監督の扱ひが良かつたならば、もっと雄々しいものとなつたであらうと思ふ」と評している。主演は一応、配役序列《ビリング》一番目のポール・ロブスンと二番目のサー・セドリック・ハードウィックになるのだろうが、飯田氏は「白人探険隊の面々はむしろポール・ロブソンの助演者格である」と書いている。また、美人女優のアンナ・リーは、新進のくせにすでにこの映画の監督ロバート・スチーヴンソンと結婚していた。とろりふっくらとした顔立ちの肉感的女優で現在の小生の好みの一タイプだが、映画を見た時はなにぶんまだ中学生、やたらに綺麗だとは思ったが女を見てこれが好みだなどという域には達していない。監督のロバート・スチーヴンソンはこの映画でプロデューサーから監督へ転じた人。 (画像省略) 「突然父親は蛮族のツワラの為に神隠しに逢ひ行方不明となつたが、ケイシイは勇を鼓して旅を続けた。そしてアランの案内するグッド少佐(ローランド・ヤング)、ヘンリイ・カーティス卿(ジョン・ローダー)の一行と叢原《そうげん》の中で奇しき遭遇をし、共同して宝窟探険に向ふ事となつた。暗黒大陸を奥へ奥へと地獄の苦しみを続けた後、一行はズルー族の部落に到着した。ウムボパの語る所によるとズルー族こそソロモン王の後裔であるが、今は蛮族ツワラの為に土地を奪はれ迫害を蒙つてゐるといふ事だ。白人の出現と共に両種族の間には原始的な戦闘が開始された。一行はズルー族に味方したが形勢は不利である。その時突如日蝕が起り、無知な土人は神の呪ひとして恐れ怖《おのの》いた」  この部分でまた、忘れられない一カットが出てくる。日蝕におそれおののいている土人のひとりのクローズ・アップだ。蛮人のあの部厚い下唇がぶるぶると顫《ふる》え、それがとまらない。恐怖でうつろに見開かれた眼。以前「世界の終り」で紹介したあの中年のおばちゃんのクローズ・アップに匹敵するカットであった。外国にはまったく、クローズ・アップに耐えられるうまい端役《はやく》がざらにいるのだということを思い知らされる。 「この虚に乗じ一行はズルー族を率ゐてツワラ族を一挙に撃滅しソロモン王の宝窟を完全に確保した。激しい戦闘は止み白人達は宝窟を探険した。そしてそこにツワラ族に監禁されたオブライエンを発見しケイシイは父と喜びの再会をした。その時奇蹟が起つた。遙《はる》か彼方に聳《そび》え立つ峻峯が大音響を発し爆発したのだ。火炎は天に沖《ちゆう》し爆発は二度三度と続いた。忽ちにしてソロモンの大宝窟は地下に埋められて了つた」  この部分はよく憶えている。宝窟の中に閉じこめられてしまった白人たち。足もとの地は割れ、はるか地底ではごぼごぼと熔岩が噴き出ている。白人たちは崖《がけ》っぷちのようなせまい足場にへばりつき、下を見おろしている。あと一回爆発したら全員まっ逆様かまたは生き埋め。ケイシイはすでにヘンリイ・カーティス卿と恋仲になっているので抱きあっている。 「以前は、死ぬのがこわかったわ」と、ケイシイ。「夜なかに眼ざめて死を考えた時など、特にこわかったわ。でも今はあまりこわくないわ」などと死を前にして洒落《しやれ》たことを言っている。  突然、次の爆発で壁がくずれ、逃げ道が開く。全員が逃げ出す。いちばんうしろを走っているグツド少佐、行きがけの駄賃に、傍らの長持ほどの大きさの宝石箱にぎっしり入っているダイヤモンドをざくりとひと掬《すく》いする。せっかくの大宝窟に入りながら、持って出たダイヤモンドが両手にたったのひと掬いであるが、それでも大変な値打ちであろう。ここでは観客席に笑いが起る。この映画で唯一の笑いである。アメリカ映画ならさしずめ、もうひと掬い、もうひと掬いと欲張る悪役がいて、ついにぺしゃんこになるところだが、これはイギリス映画なので白人はすべて紳士である。蛮族以外に悪役は出てこない。 「その昔ソロモン王が子孫の為に埋蔵したと伝へられる世界に比なき無尽蔵の宝物は千古の神秘を包んだままかくて闇から闇へと葬り去られた」全八巻の終り。  スタッフは他に、ストーリイ構成(アダプテーション)がラルフ・スペンス、脚色と台詞のトリートメントが「暗殺者の家」のA・R・ローリンソンと「三十九夜」のチャールス・ベネット、台本がローランド・パートウィー、撮影がグレン・マクウイリアムス、アフリカ撮影がシリル・J・ノールズ、音楽はルイス・レヴィである。いいスタッフを使っているし、結構大がかりな金をかけた作品でありながら評価されず、映画史にも残らなかったのはやはり監督の腕が凡庸《ぼんよう》であった為か。飯田氏は「子供だましと言つて了へばそれまでだが、英吉利《イギリス》製だけに金がかけられてある」と書き、内田氏は「原作の持つ猟奇と大掛りな面白さにも達してゐない様である」と書いている。  封切られたのは昭和十二年十月三十一日、日劇では大河内伝次郎の時代劇「血路」と二本立てで大盛況、日劇ヒット興行のひとつとなった。新宿映画劇場も同様の二本立てだったがここは初日が十一月三日の明治節であった為、開館以来三度目の好成績(二千円突破)であったという。  この年の十一月には日本映画界に大事件が起った。林長二郎(長谷川一夫)が兇漢に襲われ、剃刀《かみそり》で左頬から耳にかけ十二センチ、鼻の下に五センチの傷を負った有名な事件である。長二郎が十月十九日、正式に東宝へ入社したことに対する厭《いや》がらせであろうと噂され、大騒ぎになり、キネ旬にもその記事だとか、「ファンの皆様へ」と題した東宝の社告、長二郎のことばなどが載っている。  支那事変のニュースで客を呼ぶニュース専門館が活況を呈したのもこのころである。丸の内の第一地下劇場、新宿の朝日ニュース劇場などは漫画との併映のせいもあってか家族づれが増加し、地方でもニュース専門館に転向する映画館がふえたという。  十月にはメトロ映画、パール・バック原作、ポール・ムニ主演の「大地」が一本立てで封切られ、大変な好成績だったらしい。ぼくはこの映画も見ているが、なにぶん結婚後、東京へ引越してきてからのことなので、別のエッセイにも書いたことだし、この映画史からは省く。  ところで今回は前回に引続き、いよいよ本篇中の白眉《はくび》、わが不良少年物語のクライマックスたるべき曾根崎警察署のくだりを書かねばならない。この部分、このエッセイを書きはじめた時からいずれは書かねばならぬものと覚悟はしていたが、どうも気が重い。読者にしてみればぼくの書きかたは自己の旧悪をいささか自慢げにすらすら書いているかの如く見えるかもしれないが、これはこの部分に限らず常に相当の抵抗感と争いつつ書いているわけで、その抵抗の跡を文から払拭《ふつしよく》する技術に心を砕かなければ今度は読者がすらすら読めないことになる。お察し願いたいものだ。その抵抗感というのは当時の自分がやった悪事に対するあまりの罪悪感のなさに今となって驚き、それに対して抱いている罪悪感のことである。などと書くと至極簡単になってしまうが、これまた本当はもう少し複雑な感情をわかりやすくそう書いているだけのことだ。  さて、堀校長、島津訓導、父三者の相談の結果は、やはり警察へ行くのがいちばんいいだろうということになった。その足で父につれられ、すぐさま警察へ行ったのか、その日の授業が全部終ってからふたたび学校へやってきた父につれられて行ったのか、その辺の記憶は脱落している。こちらは母親の着物を売りとばしただけで警察へつれて行かれるとは正直のところ思ってもいなかったのだが、実在しない不良少年グループの話などをでっちあげたのだからまず当然の報いといえる。むしろ父にしてみればわが子を警察へつれて行かねばならぬ事態など、まさに悪夢であったろうと想像できる。しかも校長や担任との話しあいの結果だったのだから、つれて行かざるを得なかったわけである。校長と担任の責任転嫁ともいえるが、どちらにしろ父にしてみれば、いくら叱ろうが殴ろうが素行を改めぬぼくをどう扱ってよいか困り果てていて、警察にでも頼るほかなかったのであろう。  曾根崎警察署は当時も今と同じ阪急梅田駅の筋向かいにあった。建物の中に入ったのは生涯でこの時一度だけ。防犯課は二階だったと思う。つれてこられた連中や刑事たちがあわただしく入れ替る落ちつかない部屋の中で、ぼくは最初防犯課長だか係長だかにいろいろ訊《たず》ねられた。このころのぼくは色がやたらに白く端正な顔立ちをしていた。その顔立ちを利用して優等生的な、物怖《ものお》じせず相手の眼をまっすぐ見ての「はい」「はい」という返答に、この刑事はしきりに顔をしかめ、そっぽを向き、舌打ちしたりしていたが、いずれ青少年係の主任が戻ってくるからというのでいったん訊問《じんもん》を打ち切った。ぼくと父親は部屋の隅のベンチでしばらく待たされた。  いろいろな人種がつれてこられていたが、傍で聞いていていきさつが判明したのは一例だけ。リーゼント・スタイルの兄ちゃん三人である。「血煙り荒神山」の芝居をするのだといって鳶口《とびぐち》を持ち出し、今でいうなら兇器準備集合罪でつかまったらしい。あとで考えたことだが吉良の仁吉に鳶口は変である。鳶口なら「め組の喧嘩」であろう。  青少年係の主任が戻ってきた。さっきの刑事よりやや年上と思える中年の刑事で、色は黒かった。ぼくを取調べた上司から話を聞き、「だいぶ嘘がありますな」「うん。だいぶ嘘がある」などと話しあっている。この青少年係主任には、さっきのぼくの優等生的態度は通用しなかったが、それでもぼくは結局、最初の嘘を最後までつきとおした。約一時間、この刑事はぼくを訊問した。  途中、ただ一度だけ嘘を見破られた。「その不良どもは学生帽をかぶっていたか」 「はい」 「校章は見なかったか」  ぼくは、自分がいつもそうするものだからつい、彼らは校章をはずしていたと答えた。 「嘘をつけ」と、刑事。「奴らは絶対に校章をはずしたりはせん」  アンパンかぶり(校章が見えぬような帽子のかぶりかた)こそ彼ら不良の心意気だったのだ。  他にもぼくの話の中から嘘を見つけ出そうとして刑事は同じ話を何度もぼくに繰り返させた。ここまできて全部虚構の大嘘とわかったのではどんなひどい目にあうかわかったものではない。ぼくは頑として最初の嘘を貫き通した。刑事は次第に声を大きくし、一度だけ手の甲でぼくの頬を殴った。これはさすがに痛かった。刑事は何度も「お前のその曲った土性《どしよう》っ骨《ぽね》を」うんぬんという言葉を繰り返したが、「土性骨」という言葉を聞いたのは初めてだったので、最初ぼくはこれを「泥鰌《どじよう》っ骨」だとばかり思っていた。  刑事はついに手錠をとり出した。「これは手錠だ」  そんなことはわかっている。  脅すつもりだったのだろう。はめてやるから手を出せと刑事は言った。手錠をはめられることにさほど深い象徴的意味を認めてはいなかったので、ぼくはあっさりと両手を突き出した。  ここで突然、それまで話を横で聞いていた父親が激昂した。父親にとっては手錠イコールお縄頂戴であり、家族から縄つきが出れば大阪市教育委員としての社会的生命の問題にまでなってくる。ま、そこまで大袈裟《おおげさ》には考えなかったろうが、どのみち情ない事態であったには違いない。 「もう、この」ヒステリックになった時いつも出す半分泣き声のような怒鳴り声を出し、ぼくに殴りかかろうとした。「お前みたいなやつは、もう」  今度はあわてて刑事が父親を押さえこんだ。おかげでぼくは手錠をかけられるという忌《いま》わしい経験をしそびれたのである。  刑事は父親の激昂ぶりにびっくりしたのか、訊問を打ち切った。父親は泣き、ぼくは泣かなかったが、ここでもぼくは、当時のぼくが父親に対してまるで悪いことをしたと思わなかったことに驚かざるを得ない。そういえば四十五歳の今日までぼくは自分のしたことに対する罪悪感というものを一度も持ったことがなく、前述の如く罪悪感を一度も抱いたことのない自分に対しても疑問しか抱いた経験しかないのだが、もしかするとそのことこそ本来の意味での罪悪感=原罪意識なのではなかろうか。今考えるに、この世の中には罪悪感なることばだけがタテマエとして存在し、自己の行為への罪悪感など存在しないのではないかと考えられるのだ。そんなものがあればもともと人間は悪事など働かない筈である。過失なら過失で罪悪感を抱く必要はなく、世間から強要された「罪悪感」を世間|態《てい》のため認めるだけであろう。この辺のところ、一度岸田秀氏あたりにじっくりうかがってみたいものだと思っている。 [#改ページ]  「歴史は夜つくられる」  映画を見ることも勉強のひとつである、したがって、自己の精神の栄養になることであればたとえ学校へ行かず、親の金を盗み、着物を売りとばすなど、どんなことをしたってかまわないのだという、そのような立派な考えを不良少年時代に持っていたわけではない。要するに享楽に溺《おぼ》れていただけである。なんと、当時の人間にとって映画はほとんど享楽だったのだ。  映画の方が学校以上のことを教えてくれたと断言する佐藤忠男氏のような映画評論家もいるが、そしてそれは確かに事実でもあるのだが、当時そのような立派な信念でもって映画をみていた映画少年がいたとはとても考えられない。「映画などなんの役にも立たん」とする大多数の人の考え方から無縁ではいられなかったろうし、すべての体験が役に立つ種類の職業となってはじめて過去を振りかえり、そのように言えるわけである。まして当時のぼくは、将来小説家になろうとも、映画評論家になろうとも思ってはいなかったのだから。  考えてみるとぼくは子供の時から欲望の赴くまま、ずいぶん刹那《せつな》的に行動してきたようだ。映画を見ることはものを食べることと並ぶ当時のぼくの二大欲望のひとつだった。いくら父親からぶん殴られても、また、ぶん殴られることがわかっていてさえ盗み食いをやめなかった。この時にはまだ父親への反抗心などさほどなかったし、尊敬すらしていたのだから、反抗のための反抗などという洒落たものではなく、したがってこうした行為はただ単に意志薄弱であり、と同時に強情でもあったという、相反する性格が最も悪い共存のしかたをしていたことのひとつの例である。これにもし度胸が加わり、腕力があり、世を拗《す》ねていたらいちばん厄介なタイプの犯罪者がひとり出来ていたろう。  ところで警察はその後何をしたかというと何もしなかった。世相も世相であり、それどころではなかったのだろう。何もしてくれなくてよかったわけである。そんな不良少年グループなど実在しないのだから。したがって父親としては自分の力でその架空の不良少年グループとぼくとの腐れ縁を断ち切る計画を立てねばならなかった。父親は今度は甥の力に頼った。この人は筒井敏夫という私立探偵で、ぼくとは従兄になる。従兄といっても年齢は二十歳近く離れていた。日本秘密探偵社の看板をあげ、木造の雑居ビルに一室を持ち、常に三、四人の手下の探偵を出入りさせ、社長をしていた。風貌は花菱アチャコに似ているが、これはむしろ喋りかたがあまりに似ているので尚さらそう思えたのだろう。  父親から話を聞いたこの人がぼくの嘘を見破っていたのかどうか、よくわからない。気乗り薄だったから、金にならぬ仕事というせいもあったろうが、なかばはおかしいと感じていたのではないかとも思う。この人がぼくを尾行し、その不良少年グループを捕えようということになった。鞄を下げ、いつも学校を怠けて盛り場をうろついている時と同じ恰好をしたぼくは、その日、長堀橋附近にあったローラー・スケート場に立ち、それから心斎橋筋を千日前の方へ歩き出す。十メートルほどあとを敏夫さんが尾《つ》けてくる。不良どもが出てくればとっつかまえようというのだが、実在しない連中の出てくるわけはなく、もし出てきたらぼくがびっくり仰天していたろう。  千日前附近をうろうろした揚句、尾行作戦は当然のことながら失敗に終る。午前十時か十一時頃だったと思うが、ぼくはそれから遅刻して登校した。敏夫さんがぼくを尾行したのはこの日だけだ。父親もあきらめたようだった。  あきらめたとはいえ、例によって家で説教はされた。父親の説教というのはぼくに正座をさせ、自分はその前にあぐらをかいて座り、ぼくと向きあう。これで|流 暢《りゆうちよう》に叱責《しつせき》のことばが出てくれば説教として様になるのだがあいにく父は口下手《くちべた》。そもそもどんな言いかたをすればぼくを改心させ得るか見当もつかなかったのであろう。ぼくが父親の立場であってもやっぱり困ったと思う。祖父は早く死んだから父親には祖父から説教された経験もなかった筈で、家伝の説諭法というものもない。たまに質問の形で言葉を投げかけるのだが返答に困るようなものばかり。「どない思うてるんや。うん」「それでええと思うてるんか。うん」悪いことは自分でわかっているのでどうにも答えようがない。「わしが何故怒ってるか、わかるか」そんな質問もされたが、これにも答えようがない。しかたなく「ぼくがお金を盗んだからです」などと答えると、吐き捨てるように「単純な考えやな」と二、三度くり返し、また沈黙となる。そんな具合だった。時おりは論語も出てきた筈だが、これは説教の時よりも日常口にしていることが多かったようだ。  この時はいつもと違って父親の隣りに母親が座った。「見てみい。お母ちゃん、着物が無《の》うて顫《ふる》えてる」父親がそう言ったことから判断すれば、やはりあの総絞りの羽織は母親の普段着だったらしい。あとの二枚についてはその後ずっと問い糾《ただ》されることはなかったから、たいしたものではなかったのだろう。ただ、少しのちに一度だけ母親が「あの着物がない」と言ったついでに、ぼくをちらと見てうす笑いを浮かべ、「あれもあんたと違うか」と言っただけである。  架空の不良少年どもを捕えることはあきらめた父親も、結婚後母親に着物を買ってやるどころかずっと売り食いの状態が続いていたので、総絞りの羽織だけはよほど買い戻したかったのだろう。ぼくに手紙を託《ことづ》けた。不良少年どもはその着物を古着屋に売った筈だとぼくが言ったので、その古着屋に手紙を書いたのである。どういうつもりだったのか、ぼくはその手紙を天然パーマのお兄ちゃんのところへ持って行った。手紙の内容を読み、ただ買い戻したいということしか書かれていないことを知ったからであろう。お兄ちゃんの青空書房はいつもの場所に出ていず、ぼくは市電の天五停留所の近くにあるお兄ちゃんの自宅へ行った。お兄ちゃんはいなかったが、お兄ちゃんの母親とはすでに顔|馴染《なじみ》だったので、ぼくは彼女に手紙を見せた。彼女は困った顔をした。「いったん売ったら、買い戻すのはちょっとなあ」買い戻すつもりがあるなら、質屋さんへ持って行ったらよかったのに、とも、彼女は言った。  最近しばしば坂本健一氏に会って話をするが、坂本さんはこの手紙のことも記憶していた。あの小肥りのお母さんは健在だそうである。  さて、それほどまでにして映画を見続けたのだが、今から考えるとただもう映画に餓《う》えていたとしか表現のしようがない。今までさまざまに表現してきたが、結局餓えていたというのがいちばん正しいのではないかと思う。これは面白くないだろうと最初からわかっている映画でさえ見ているからだ。本当に面白くないかどうかを確かめるために見るというのは餓えた者でなければやらぬことではないだろうか。たとえばメロドラマは大嫌いなぼくが「歴史は夜作られる」を見ているのも、そのひとつの証明になる。梅田のOS劇場で見ているのだから単なる時間潰しではなくきちんと見るつもりで見たのだろう。たとえ豪華客船と大氷山の激突のシーンだけが目あてであったとしても。 (画像省略)  昭和十二年の九月二十三日に封切られたこの「歴史は夜作られる」原題「HISTORY IS MADE AT NIGHT」が、戦後、再上映でありながらロードショー館のOS劇場で封切られたのは、やはり名作とされていたからであろうか。メロドラマではあったが筋立てはおよそ荒唐無稽、おとぎ話的な波瀾《はらん》に富んだ物語だったからぼくの好みに合い、結構楽しんだ。ユナイトが同年四月に配給したこの映画はいうまでもなくシャルル・ボワイエとジーン・アーサーの初顔合せというので有名な作品。監督はフランク・ボゼージである。アメリカ海運界の巨頭ブルース・ヴェイルを演じているのがコーリン・クライヴ。ブルースの常軌を逸した嫉妬に悩まされるその美しい妻アイリーンを演じるのがジーン・アーサー。  ジーン・アーサーはこの前年ゲイリー・クーパーと「平原児」で共演していて、このタイトルの映画をぼくは確かにどこかで見た憶えがあるのだが、西部劇嫌いでもあり、内容を忘れているのだ。映画ファンでありながら西部劇嫌いなどというと小林信彦氏あたりから大目玉を食いそうだが、曲のない拳銃の撃ちあい、殺風景な背景、単調なテーマ・ソング、いずれも気に食わないのだ。たまにいいなと思う西部劇は「大平原」「オクラホマ・キッド」「カンサス騎兵隊」など、いずれも西部劇の本道からちょいとはずれたものばかり。肉体を酷使しない単なるドンパチは活劇に非ずという考えは今でも変らない。  ヴェイルは新造の豪華客船にさえプリンセス・アイリーン号と名づけるほど妻を熱愛しているのだが、アイリーンの方は夫の嫉妬が堪え難く、とうとうロンドンで離婚訴訟を起し、勝つ。簡単に勝ったところから考えて、ヴェイルの嫉妬の凄《すさ》まじさが想像できるが、具体的にどのようなものであったか憶えていない。さて勝ったはいいが、なんでも当時のイギリスの民法だと、離婚後六カ月以内に原告側に不謹慎な行動があると、その離婚は無効になったらしい。アイリーンはパリで六カ月過すことにしたが、妻を熱愛するヴェイルはどこまでも追いかけてくる。  ここでヴェイルは一計を案じた。まず運転手のマイケル(イヴァン・レベデフ)に命じてアイリーンの部屋へ闖入《ちんにゆう》させ、無体の恋をしかけさせる。そこへヴェイルが証人となるべき私立探偵(ルシアン・プライヴァル)と一緒に乗りこむ。むろん、アイリーンに乱行ありと言い立てて、離婚を無効にしようという魂胆である。ところがその夜、いざマイケルがアイリーンに迫ろうとしている時、バルコニーから入ってきたもうひとりの怪漢。マイケルは殴り倒されてしまう。ヴェイルと私立探偵が部屋に入ってくる。怪漢は拳銃をつきつけ、アイリーンから宝石を奪い、ヴェイルと探偵を戸棚に閉じこめ、アイリーンを誘拐《ゆうかい》してしまう。  この怪漢というのは実はパリで名高い給仕長のポール・デュモンであった。ポールはシャトオ・ブルーに勤めているのだが、そこの酔客をホテルまで送っていった帰りに、アイリーンとマイケルの話を立ち聞きして、彼女を救うためにひと芝居うったのである。このポール・デュモンを演じているのがシャルル・ボワイエ。  いかに美女を救う為とはいえ、赤の他人の危難の為にまかり間違えば警察沙汰になるようなそんな冒険を誰がするだろうか。この辺が脚本(ジーン・タウン及びグレアム・ベイカー)の荒唐無稽さである。ところがこれをシャルル・ボワイエがやるとちっとも不自然ではなくなるのだ。やり手の給仕長だけあって、礼儀作法はあくまで格調高く、腕力にもすぐれ、頭のよさは抜群、ここぞというところでは人の意表をつく大冒険をする。そんな人物はいそうにないが、なにぶんボワイエの風貌が、今ではちょっとお目にかかれない現実離れのした美貌であり、男性の観客でさえなるほどこういう人物ならと納得させられてしまう。キネ旬映画評欄でも清水千代太氏が「シャルル・ボアイエの巴里の給仕長は、洒落たものである。ボゼージ描く巴里レストラン風景の人物としては、上出来である。それが実在の給仕長とは何《ど》んなに感じが違つてゐやうとも、問題ではない。ボアイエはボゼージの人物として踊りながらも、彼独自の味のある演技を楽々と演技してゐるのは流石《さすが》である」と書いている。  ポールは彼女に宝石を返し、シャトオ・ブルーに案内し、自分と名コンビである料理長のシーザーを彼女に紹介する。この髭のシーザーを人気俳優レオ・キャリロが演じている。配役序列《ビリング》は、ボワイエ、アーサーに次いで三番目であり、コーリン・クライヴより上だ。「どこかでお会いしたわね」と、アイリーンがシーザーに言う。シーザーは食卓の上のソース瓶をとり、自分の顔の横にかざす。そのソース瓶のレッテルの字は「シーザーのソース」であり、シーザーが自分の顔の横にソース瓶をかざしている絵が描かれている。商品名になっているほどの高名な料理人だったのである。絵のソース瓶の中にもシーザーが描かれていて、その手にもソース瓶が、となれば数学でいう「ロイスの無限」になるのだが、そこまでは確かめられなかった。  ポールとアイリーンが一夜を語り明かすこのシャトオ・ブルーの場面は、ずいぶん当時の映画好きの話題になったものだ。そのひとつはポールがアイリーンの口紅を借りて自分の拇指《おやゆび》と人差指のつけ根に唇を描き、その上に眼を描き、これを動かして腹話術をする場面。やや下品な女の顔で、ココという名がついている。このココの口を借りてポールがアイリーンに問いかけ、自分の恋をほのめかすのだ。ぼくは自分でも指に描いて試してみたが、顔はともかく声の方がさっぱり駄目であった。このココの真似をしたやつはぼく以外にもずいぶんいる筈である。  ふたつめは二人がシャンパンに酔ってタンゴを踊る場面。客はもう誰もいない。曲は「アディオス・ムチャチョス」である。アイリーンは靴が邪魔になり、次つぎと高く蹴《け》はなす。靴を脱ぐことには欧米ではずいぶんエロチックな意味があるのだ、と映画ファンに騒がれ、今にいたるまで名場面と言われているのはここのシーンである。アイリーンは次に外套《がいとう》を脱ぎ捨てて踊る。オーケストラはひとり、ふたりと減り、やがてしらじらと夜が明けるとひとりの老人がヴァイオリンを弾いているだけ。この甘ったるいロマンチシズムにはさすがメロドラマ嫌いのぼくも打ちのめされた。撮影はグレッグ・トーランドである。  さてヴェイルは計画が失敗したのでさらに別の策を立てる。マイケルを殴り殺してその罪を強盗に着せようというのだ。こうなると荒唐無稽を通り越して乱暴でさえあるが、大多数の観客は主人公二人の恋の成就《じようじゆ》だけを願っているので運転手|風情《ふぜい》が撲殺《ぼくさつ》されても可哀想とも何とも思わない。翌朝アイリーンがホテルへ戻ってくると殺人事件だというので警官がいっぱい。ポールが殴り倒した時の打ちどころが悪かったのだとアイリーンは早合点し、あわてて宝石を窓から捨てる。だが、あいにく首飾りをはずすことを忘れていた。この首飾りを見たヴェイルは強盗こそアイリーンの真の恋人と気づき、彼女を脅迫する。おとなしくわしと一緒にニューヨークへ戻るならよし、さもなければその男を殺人犯として捕えさせるというのだ。アイリーンはポールを救うため、パリを去る。  今はアイリーンに夢中のポール、シーザーと共にニューヨークまで追ってくる。ここでポールはニューヨーク一のレストラン・ヴィクトルをシーザーと二人で乗っ取るのだが、この時どういう手段を使ったのかぼくは忘れてしまった。何かを賭《か》けたのかもしれない。なにしろパリ一の給仕長と料理長だ。ワインの銘柄や年代を当てる賭でもして、みごと勝ったのであろう。いずれにしろ奇天烈《きてれつ》な手段だったに違いない。ヴィクトルの評判が高くなり、ポールの思惑通りアイリーンがヴェイルと共にやってくる。アイリーンは彼女の宝石を拾った男がパリで公判に附されると聞き、それをポールとばかり思いこみ、ヴェイルに頼んでパリへ弁護しに行くつもりだった。ところがポールに会ったものだから大喜び、パリへはヴェイルだけを行かせる。しかし裁判の話を聞いたポールは、無実の人を救うべきだというのでアイリーンと一緒に処女航海のプリンセス・アイリーン号に乗ってパリへ出発する。これを知ったヴェイルは嫉妬で半狂乱となり、無電でプリンセス・アイリーン号に濃霧の中を全速力で航行せよと命じる。ここまでくるともはや滅茶苦茶で、話の道理などあったものではなく、船長もヴェイルの命令通りに全速で走らせるのだからひどい話だ。船はヴェイルの思い通りに氷山へ激突する。  ぼくのお目あてのこのシーンは、たしかに見ごたえがあった。キネ旬試写室評でも内田岐三雄氏が「ここではボゼーギが、スペクタクル演出者としての腕前を見せる」と書いている。氷山が舳先《へさき》へ近づいてくるシーン。激突。乗客の大騒ぎ。ボートには女子供だけを乗せろ、いやわしも乗せてくれ金はいくらでも出すなどの常套《じようとう》的大騒ぎなのだが、こういうところはむしろ思いきり常套的なシーンを全部ぶちこんだ方が観客は堪能する。ボートに乗せようとしてもアイリーンはポールの首っ玉にすがりつき、宙ぶらりんになったまま離れない。この時のボワイエの泣きそうな表情がじつによかった。女性ファンがうっとりするところである。  船が沈んでしまえばタイタニック二世号と同じになるが、このプリンセス・アイリーン号は沈まない。そして最後はヴェイルが、いっさいを告白した遺書を書いて自殺し、二人は結ばれるのである。このご都合主義にも驚かされる。読んでおわかりの如く、この物語には他にもおかしいところがいっぱいあり、探し出せばきりがない。しかも別段喜劇仕立てというわけでもないのだ。これを前記千代太氏は「恋愛の三角関係も常識的な観点からすれば、怪しい情痴の世界には相違ない。けれども、それがボゼージの手にかけられると、彼流の甘い感触にカムフラージュされて、美しいロマンチックな恋愛情緒として快く受けとられるのである。恐らくこの映画は、彼の努力もひと通りでなかつたに相違ない。徹頭徹尾非常識な、ナンセンスな題材を与へられながら、自己一流の感傷的な恋愛図を描いたのは、矢張ボゼージの老練さと力量とによるものである。凡才の企てて成し得るところではない」と書き、同内田氏も「もし、ボゼーギの如き甘いロマンチシズムを持つ人物の手にかからなかつたならば、恐らくはこの映画は欠点のみ目について感興大いになかつたものであつた筈だ。『歴史は夜作られる』のシナリオは、それほど作為と、ごまかしとに充満したものなのである。我々は、この物語は総て嘘である、こんなことは有り得ないことだと否定する。けれども、ボゼーギの演出は、これを絵そらごとなりに面白いロマンスであるとして我々に見せるのである」と書いている。  俳優たちについては、千代太氏はボワイエ、内田氏はアーサーを褒めていて、レオ・キャリロ、コーリン・クライヴは共にあたえられた役目を果たしていた、と書いている。ぼくはコーリン・クライヴについての記憶がまったくないのだが、もしこの支離滅裂な半狂乱の男を不自然さを伴わずに演じ切っていたとすれば、これはたいへんな演技力ではなかったかと思う。  ジーン・アーサーは芸熱心で有名な女優だが、特にこの映画は彼女一世一代の名演技であったとされている。大スタアになってしまってからは作品を選んだらしく出演作品は多くない。ぼくが不良少年時代に見て憶えている映画はこれと「スミス都へ行く」だけである。共に彼女がいちばん美しかった時代の映画ではなかったろうか。どちらも三十二、三歳の時の作品だそうだから。  さて封切当時の浅草・大勝館、丸の内・帝国劇場、新宿・武蔵野館では「初日が秋季皇霊祭」であった為と、「洋画ファンにとつては青天の霹靂《へきれき》とも言ふべき外画輸入統制などで、このところ洋画に対する常連の人気は反撥的に高まつ」たためにすばらしい好成績だったそうである。しかし二番館では「動員令が下つた」せいもあり、普通の成績だったという。防空演習や出征兵騒ぎなどが、このころから映画館に、徐々に、徐々に影響をあたえるようになっていたようだ。 [#改ページ]  「奴隷船」 「厳しい法の眼を逃れて、ジムを船長とするアルバトロス号の船員達は、奴隷売買に従事してゐた」  これまた「海の魂」同様、奴隷船の話である。この映画が作られた頃はこういう話が受けたのだろうか。原作はジョージ・S・キングの小説「最後の奴隷船」で、ぼくはこれと同じタイトルの少年小説を読んだことがあるが、映画とはまったく違う話だった。それと同じ原作なのかどうか、この映画も原作をだいぶ書き改めてほとんど別の話にしてしまったのだそうであるが、それをやったのがなんとアメリカの大文豪ウイリアム・フォークナー。ただしこのころのフォークナーは金に困っていたらしくて、ずいぶん映画の脚本を書いている。この映画の封切られた昭和十三年ごろは、フォークナーの名は日本では、一般にまったく知られていなかったといってよい。だいたいこの作家は日本では、このころアメリカ文学者にのみ名が知られているだけで、ヘミングウェイやスタインベックに比べればずっと遅れて作品が紹介された。キネ旬試写評欄では滋野辰彦氏が「フォークナーはミリアム・ホプキンス主演の『暴風雨の処女』その他の原作者として、この邦《くに》の洋画ファンにも名を知られた小説家であるが」などと書いている。映画ファンの方がよく知っているという程度の作家だったのだ。ただし同じくキネ旬の批評欄の方では清水千代太氏が「フォークナーといへば、アメリカの文人としては相当の地位に在る男だ」とも書いている。話に聞くところではいかなる文豪といえど、昔はずいぶん金に困っていたらしくて、こうした映画の仕事をやった人が多く、それを映画会社は、これまたいかなる文豪といえど平気で書き直しを命じたりなどしてずいぶんこき使ったのだそうだ。 「奴隷船」原題「SLAVE SHIP」はそのフォークナーの改稿したものをさらにサム・ヘルマン、ラマール・トロッチ、グラディス・レーマンの三人で脚色したもの。二十世紀フォックスの一九三七年度作品で監督はテイ・ガーネットである。 「ある時上陸したジムは、不図した事から美しいナンシイと知合ひ恋に陥ちた。彼は今迄の仕事から足を洗ひ、堅気の生活に入らうと決心し、仲良しの一等機関士トムスンに命じて船員達に金を分配して解雇した」  ジムを演じているのが二枚目のワーナー・バクスター、一等機関士トムスンがウォーレス・ビアリイ、ナンシイが美人女優のエリザベス・アランである。ただし主演者はバクスターとビアリイであり、どうやらこの二人の男の対決と友情がテーマであったらしい。エリザベス・アランは配役序列《ビリング》三番目で、助演とされている。だが、このうち今でも映画史に名を残している俳優はウォーレス・ビアリイだけだ。ずいぶん映画歴のながい人で、ほとんどサイレントの初期から出演している。人情味のある悪漢をやらせたら絶妙で、ぼくはもう一篇、マーガレット・オブライエンと共演の「悪漢バスコム」でこの人の悪役を見ている。飲んだくれの父親という役どころもうまかったそうで、「チャンプ」ではアカデミー主演男優賞をとっているが、そっちの方の映画は一本も見ていず、評判を聞かされるばかりである。 (画像省略)  この映画でも、いちばんぼくの印象に残っているのがビアリイである。主人公ジムと仲の良いお人好しの人物かと思って見ていると、突然裏切って他の船員達と一緒に叛乱《はんらん》を起し、ジムとナンシイを船室へ閉じこめてしまってアフリカに向かう。それどころか、アフリカに着くと、奴隷を船に積みこんでしまってからジムだけを置去りにし、ナンシイだけを乗せて出帆する。ナンシイも奴隷として売りとばす気なのだ。なんて悪いやつだとぼくは驚いたが、まだ中学生だったので当時は物語の細部まではよくわからなかったのだ。じつはトムスンはじめ船員たちは皆、奴隷商組合の組合員であり、単に、死んでも役人につかまるのはいやというだけの動機による叛乱であり、その点でジムと意見がわかれたに過ぎない。  いちばんよく記憶しているシーン。  甲板に立ちつくすナンシイはトムスンから、お前さんも奴隷として売りとばすつもりだよと言われ、茫然《ぼうぜん》とする。トムスンはにやにや笑いながらさらに、「どうして泣き出すとか、卒倒するとかしないのかね」とナンシイに訊ねる。この凄いせりふ、書いたのはフォークナーだろうか、それとも脚色した三人の中の誰かだろうか。最後まで見ればトムスンにそんな気はなく、ナンシイを攫《さら》ったのはどうやらジムに復讐《ふくしゆう》させない為の人質であったらしいとわかるのだが、この時にはまだそんなこととは知らず、ビアリイの凄みのある演技のせいもあり、ずいぶん嗜虐《しぎやく》的なことをいう悪漢だと思って慄然としたものだ。 「後を追つた彼《ジム》は秘かに小船から乗り移り、船員達の銃に鍵をかけて彼らを閉込め、ナンシイと協力して舵を取り、そこから一番近いセント・ヘレナへ船を向けた。セント・ヘレナには英国の官憲がゐて、奴隷商人は捕へられれば死刑に処せられるのである。ジムはナンシイを助け、近寄る船員を射殺しつつ眠りも食事も取らなかつた。トムスンはジムのお気に入りの少年スウィフティーに命じて食物を持つて行かせ、油断を見すまして襲はうとした」  スウィフティーをやっているのがミッキー・ルーニー少年。このころは「腕白時代」「我は海の子」などに主演している名子役だった。したがって配役序列《ビリング》は四番目。この時代より少し前の彼を、ぼくはワーナー映画「真夏の夜の夢」で見ている。パックを演じていたのである。ただし見たのは昭和四十二、三年ごろ、テレビの深夜劇場においてであった。「少年の町」など、アンディ・ハーディ・シリーズに出演し、アカデミー特別賞をとるのはこの映画を撮った翌年である。成人後は喜劇俳優に転向したが、この辺になるとどなたもご存知であろう。エヴァ・ガードナーの最初の夫であったことでも有名だ。  配役序列《ビリング》五番目に、後年の名優ジョージ・サンダースの名がある。レフティの役名で出ているのだが、まったく記憶にない。むしろ配役序列《ビリング》七番目でアフリカの奴隷商人の役を演じたジョセフ・シルドクラウトの方が重要な役であったらしく、試写評でも千代太氏、滋野氏が共に言及している。  ぼくがこの映画の細部を記憶していないのは、結構はらはらさせる映画でありながら、やはり派手な活劇がなかったせいであろう。美男美女の運命にはらはらするというだけでは二度も三度も見る気がしなかったのだ。見たのは梅田小劇場。例の如く学校をサボって見たのである。 「然し少年はジムに信頼され拳銃まで与へられると、それを裏切ることは出来なくなつた。スウィフティーは忍び寄るトムスン等を拳銃で追払つた。かうして船はセント・ヘレナの沖に掛つた。船員達は最後の手段として奴隷を鎖のまま海中へ投込み証拠を消さうとした。之《これ》を見たジムはナンシイとスウィフティーを小舟に移し、単身船員を脅して奴隷の鎖を解かせる。警備船が近づいた時船は火を発しジムはトムスンを射つたが、自分も彼に殴り倒された。トムスンは重傷の身でスウィフティーと力を合せてジムを小船に運び、自分は船と運命を共にした。やがて裁判が開かれ船員は次々に処刑されたが、ジムは一身を犠牲にして彼等を阻止し奴隷を助けた事が判り、ナンシイと少年を連れ、ジャマイカに新天地を求め楽しい生活を始める事になつた」  最後の活劇シーンもまったく憶えていない。メロドラマとして作られた映画だから、お座なりだったのだろう。それどころか海洋活劇でありながら海の描写もお座なりだったらしく、滋野氏も監督テイ・ガーネットのことを「アメリカとアフリカの間を往復する船が舞台となつてゐるにも拘らず、まるで海の描写を忘れ、一枚の地図で済ましてゐるこの男の神経は、よほど太く出来てゐるに違ひない」として怒っている。全体の評価もひどく低い。「私は、之はフォークナーの改作によるのか、三人の脚色者の所為《せい》であるか、またキングの原作そのものの故であるかを知らぬが、少くとも企画としての狙ひの低かつた罪は、ザナックの負ふべき責であらうと思ふ。といふのも、『虎鮫島脱出』にせよ、今またこの映画にせよ、共に面白い題材を得ながら、それを生かしてゐないからである」  ザナックはもちろん、当時二十世紀フォックスの撮影所長で独裁者だった、後年の名プロデューサー、ダリル・F・ザナック。このころはまだこの映画のような安あがりのものばかりで、映画史に残るような名作群は生み出していないが、のちに「わが谷は緑なりき」(昭16)、「荒野の決闘」(昭21)、「イヴの総て」(昭25)、「革命児サパタ」(昭27)、「史上最大の作戦」(昭37)などの名作、大作を山ほど製作することになる。  千代太氏の批評もたいへん厳しい。「僕が此の映画のスタッフに期待した唯一つのものはフォークナーのストーリイであつただけに、フォークナーの特性らしいものの片鱗も殆どなかつたことが何よりも大きい失望であつた。フォークナーのタッチを発見出来ない以上、この恐るべき、厚顔無恥なメロドラマに対して何を要求し、何をあげつらふ事もない。メロドラマの主人公二人の幸福の為に、奴隷商人処罰の法をさへ曲げて見せる結末に至つては、その心臓の強さに驚歎するのみである」  エリザベス・アランは綺麗《きれい》だった。このころの映画の女優だから綺麗なのは当然だが、上品でノーブルで、海洋活劇の、運命に弄《もてあそ》ばれる女主人公《ヒロイン》としてはうってつけだった。なぜこんなに綺麗な女性ばかりが当時のハリウッドに何十人も、いや、何百人も存在し得たのだろう。それにひきかえ当時のぼくの周囲の現実に存在した女性たちたるや、スクリーンから転じた眼で見るならばとても同じ人間とは思えぬ代物ばかりだった。中学ではそろそろ色気づいてきた級友たち同士が、好きだの惚れただの、似ても似つかぬ女の生徒をとらえてディアナ・ダービンに似ているだの、騒いでいたものだが、ただただ、心の底から、つくづく阿呆《あほ》かと思うだけ、ぼくの心を占めていて夜ごとわが手すさびの対象となった女性は現実にはとても手の届かぬ夢の美女たちばかりであった。  この映画は十三年の三月三十一日、日劇、東横(渋谷)、大東京(新宿)という東宝系三館で、ロッパの「ガラマサどん」と二本立てで封切られた。前週のディアナ・ダービン主演「オーケストラの少女」の圧倒的大好評に引き続き、好成績をあげ、「そして此のアクの強いメロドラマは相当に客ウケが良かつた」という。「ガラマサどん」の人気も手伝って客が入ったのだろう。  この「奴隷船」は、昭和十二年の九月ごろからキネ旬誌上ではしばしば広告されていて、試写会も十月初旬でずいぶん早かったのだが、なぜか公開が遅れに遅れ、年を越して前記の如き封切になってしまっている。したがって、以後にとりあげる映画、「軍使」だの「五人の斥候兵」だのと、封切に関しては前後することになる。  ここで昭和十二年度のキネ旬ベスト・テンを記しておこう。まず外国映画の部。 1 女だけの都 2 我等の仲間 3 どん底 4 孔雀夫人 5 明日は来らず 6 禁男の家 7 大地 8 巨人ゴーレム 9 暗黒街の弾痕 10 激怒  一位、二位、三位は言うまでもなくフランス映画の名作。「女だけの都」と「どん底」はぼくも高校時代に見ているが、周知の作品だし、芸術的香気の高い映画なのでこの映画史にはふさわしくないから省いた。四位、五位はアメリカ映画で、当時は評判になったが現在では忘れ去られている。六位「禁男の家」も、ダニエル・ダリュウ主演のフランス映画で、戦後も公開されたが未見。七位のアメリカ映画「大地」のことは以前に書いた。八位でやっと「巨人ゴーレム」が登場する。結局十本のうち五本がフランス映画、五本がアメリカ映画である。しかも次点の「シュバリエの流行児」もフランス映画。これも戦後上映されていたがぼくは見ていない。この時代、まさにフランス映画の黄金期であったといえる。  ついでに日本映画のベスト・テンも書いておこう。 1 限りなき前進 2 蒼氓《そうぼう》 3 愛怨峡 4 風の中の子供 5 裸の町 6 若い人 7 人情紙風船 8 淑女は何を忘れたか 9 大坂夏の陣 10 浅草の灯  この中ではつい最近、前進座の「人情紙風船」をフィルム・センターで見ているだけである。それにしても映画の評価というもの、時代と時間の経過によってずいぶん変ってくるものである。もちろん、フィルムの保存状態にもよるものであろうが。  また、この年の八月にはソニア・ヘニーの「銀盤の女王」が封切られている。オリンピックの花形ソニア・ヘニーを初めて主演させたスケート映画である。丸ぽちゃ笑窪《えくぼ》のソニア・ヘニーの顔は確かに憶えているし、タイトルにも憶えがある。ただ、戦後見たのかどうか確かな記憶がない。似たようなタイトルの他の映画と混同しているのかもしれない。もちろん、エスター・ウイリアムズの「水着の女王」などと混同していることは絶対にないが。ま、どちらにしろ何も憶えていないのでは書けそうにないから見送った。 [#改ページ]  「軍使」  テンプルちゃんの「軍使」を見たのは、千日前グランドだった。戦後の再上映だったから、すでにシャーリイ・テンプルの時代は終り、マーガレット・オブライエンの時代となっていた。「接吻《キツス》売ります」(昭和二十年)などの、思春期テンプル映画が同じ頃上映されたが、あまり評判にはならなかったようだ。ぼくの中学の同級生ではやたらにオブライエンが好きと言い続けて皆に笑われているやつがいたが、ぼくの好みはやっぱり華やかさのあるテンプルの方である。  シャーリイ・テンプル。今や伝説の名子役である。本名はシャーリイ・ジェイン・テンプル、シャーリイ・ブレインス・テンプルの二説があり、どちらが本当かわからない。父親は銀行の頭取。良家の令嬢だ。母親がステージ・ママ志望で、四歳の頃から映画に出演しはじめた。エデュケーショナルの「FLORIC OF YOUTH」という、子供ばかりが出演する短篇シリーズに主演しているが、ぼくはこれを二本、小雁ちゃんの家で見せてもらっている。ちびっ子ギャングにお色気が加わったようなものだが、演出が下手で編集もまずいから、ジャリどものせりふの間《ま》がそのまま拡大されていていらいらさせられた。ま、そのおかげでテンプルのうまさが際立ったわけであるが。  このシリーズでフォックス映画に認められ、「歓呼の嵐」(昭和九年)に出演、ここで歌った「BABY TAKE A BOW」が受け、次作「可愛いマーカちゃん」(同年)では主役となり、これが大ヒット。以後名子役として独走することになる。七歳の誕生日には全世界から十三万五千個のプレゼントが届いたというから、その人気のほどが知れよう。世がハリウッド映画の黄金時代だったればこそでもあろうが。 (画像省略)  この「軍使」、原題「WEE WILLIE WINKIE」は昭和十二年、テンプル十歳の時に作られた映画である。それまでに作られたさまざまなテンプル映画が、テンプルの芸におんぶしたものばかりでマンネリに陥りはじめていたため、二十世紀フォックスの有名なる独裁者、例のザナックが、ジョン・フォード監督とヴィクター・マクラグレンの名コンビを引っぱってきて、この男性チームとテンプルの組合せで一本作らせようという、いかにもザナックらしい企画を立てたわけである。  今までなぜか書かなかったが、ぼくはこの映画を見た中学一年のころからすでに映画俳優になる気でいた。それも、いずれは、というのではなく、機会さえあればすぐにも子役で、などと思っていて、だからこそ子熊座という児童劇団に加わったりもしていたのである。むろん映画に子役で出演できるチャンスなど滅多にあるものではない。中学の演劇部にいた学友ふたりが、大阪公演にやってきた山口淑子の芝居に子役で出演したという話をだいぶあとで聞かされ、ずいぶん羨《うらや》ましかったものである。  したがってぼくがテンプル映画を見たのは、今から考えると、いったい名子役といわれるシャーリイ・テンプル、どれほど達者なのかと一種の敵愾心《てきがいしん》もあって見たわけであろう。名子役としてのテンプルちゃんを見たのは、ぼくはこの映画一本のみである。  前前回、ぼくは西部劇が嫌いだと書いた。  また、以前「そういえば筒井さんの話には西部劇が出てきませんね」と、ある日はっと気づいた様子で映画友達の森卓也氏が叫んだものだが、それくらい無関心、映画ファンとしては重大な欠陥なのかもしれない。  しかし、まるっきり嫌いではない。ジョン・フォードの作品では好きなものもある。特に最近テレビで改めて見てさすがにたいしたものだと感心した作品も多いのだ。そこで罪ほろぼしに、今回ちょっとジョン・フォードのことを書こう。 「わが谷は緑なりき」という作品があるのでジョン・フォードをアイルランド生まれと思っている人が多いが、実は父が移民でアメリカ、メイン州生まれ。兄のフランシスは「名金」などに主演したハリウッド初期のスタアである。  ジョン・フォードとヴィクター・マクラグレンのコンビはずいぶん古いが、この「軍使」の前には名作「肉弾鬼中隊」「男の敵」をRKOで撮っている。殊に「男の敵」によってフォードはアカデミー賞を受賞、第一級監督になった。  いわゆるフォード一家といわれる俳優の中では、それではマクラグレンがいちばん古いかというとさにあらず。監督になったばかりのころ、フォードはユニバーサルでハリー・ケリー主演西部劇のほとんどを撮っているのである。のち、息子のハリー・ケリー・ジュニアが一家に入ったことはご承知の通り。  この「軍使」と同じころにフォードが撮った映画では、大作「ハリケーン」がある。 「軍使」の原作は「ジャングル・ブック」を書いたルドヤード・キプリングである。 「幼いプリシラ(シャーリイ・テンプル)は、お父様が亡くなつたので、若い母親のジョイス(ジューン・ラング)と一緒に、未だ会つたことのない祖父に引取られることになつた。祖父は英国印度駐屯軍の司令官なので、母親は亜米利加から遙々とここを訪れた」  ジューン・ラングはこのころ売り出していた美人女優で、ヴィクタア・オルザッチなる人物と結婚し、すぐ離婚した直後の出演。 「途中の駅まで出迎へて呉れたのは大男、マクダフ軍曹だつた」  マクダフ軍曹がマクラグレンである。こういう役をやるとマクラグレン、ぴったりである。  ヴィクター・マクラグレン、ロンドン生まれである。ボクサーをやり、レスラーをやり、金鉱探険家となり、その後第一次大戦中は英国アラビア駐屯軍にいたのだ。アラビアとインドの違いだけで、まさにぴしゃりの役柄。そういえばこのマクラグレン、出世作には軍隊ものが多い。最初はウイリアム・ポウエルと共演した「ボー・ジェスト」の三枚目で認められたわけだし、性格俳優として脱皮したのは「肉弾鬼中隊」である。 「馬車に乗つて奥地へ出発しようとする時、土人の酋長コダ・カーン(シーザー・ロメロ)が変装して武器を盗み出さうとしてゐるのを発見され憲兵に捕縛された。その時カーンは首に掛けてゐたお守りを落したのでプリシラはそれを拾つておいた」 「歴史は夜作られる」に続いて、またしてもシーザー・ロメロである。ザナックのお気に入りだったのだろうか。今回は敵役《かたきやく》だが、決して憎まれ役ではなく、むしろ儲《もう》け役だ。 「祖父は非常に厳格な軍人だつたので、プリシラはお祖父さまに気に入る為に自分も軍人にならうと思つた」  お祖父さま、ウイリアムス連隊長を演じているのがこの時すでに七十五歳のC・オーブリイ・スミス。生えぬきの英国俳優でこの人も役柄そのままだった。ちょいちょい名前を聞く人だが、他にどんな映画があったか記憶にない。ハリウッドでクリケットができるのはこの爺さんだけだった、などという変な噂話だけおぼえている。 「彼女と仲良しになつたブランディス中尉(マイケル・ウエーレン)はマクダフ軍曹にプリシラを教育する様に話した。プリシラと軍曹はすつかり仲良しになつて彼は彼女に『ウィー・ウィリー・ウィンキー』と名をつけて呉れた。一方ジョイスはブランディス中尉と恋に陥ちる」  マイケル・ウエーレンという二枚目は記憶にない。そもそも中尉とジョイスのロマンスがつけ足しなのである。配役序列《ビリング》はテンプル、マクラグレン、スミス、ラング、ウエーレン、ロメロの順である。映画の記憶では、プリシラが中尉にコピーという渾名《あだな》をつけていたようだ。  この映画でいちばん面白かったのは、プリシラ新兵を加えての、マクダフ軍曹の教練のくだり。練兵場で一分隊を率いての軍曹の教練に、小さなプリシラがちょこちょこといちばんあとから行進して行く場面は、やはりテンプルちゃんの見せ場だったのだろう。実に可愛いのである。ところがこの新兵、右も左もわからないからへまばかりやるので、軍曹は大弱りである。他の兵隊にしめしがつかない。のらくろ漫画などでおなじみの「教練ギャグ」の続出である。兵隊たちはつい、にたにた笑ってしまう。軍曹が怒る。「伍長。何がおかしい」クローズ・アップで軍曹と伍長の、鼻さきを突きつけんばかりの睨みあい。といっても、伍長の方は眼を伏せ、石のような表情である。軍曹の顔を見ると笑ってしまうからであろう。かわりに観客が大笑い。  プリシラに影響されて兵隊のひとりがへまをする。軍曹、怒って力まかせに殴り倒す。兵隊はスローモーションでうしろに倒れ、頭の天辺《てつぺん》だけを地面につけ、からだをまっすぐにしたままゆっくりとみごとに半回転。目を丸くして喜ぶプリシラ。 「ウィンキー兵卒は練兵場で皆を手こずらしてばかりゐたが、カーンがここの牢に入れられたのを見て時々窓の外へ遊びに行つた。土民軍のスパイをしてゐる下男は彼女を利用してカーンに密書を届け、その夜舞踊会が開かれてゐる間に突如襲撃した土民軍はカーンを奪つて逃げ出す」  この夜襲の場面は記憶にないが、滋野辰彦氏は「やはりフォードらしい線の強さがある」と書いている。ついでに書いておくと脚本はアーネスト・パスカルとジュリアン・ジョセフリン、撮影はアーサー・ミラー。 「国境に暴動が起つてブランディス中尉とマクダフ軍曹は一隊を率ゐて討伐した。この戦で二人は共に傷き、軍曹はプリシラに見守られつつ遂に息を引取つた。プリシラは幼心に英人と印度人の不和を歎き、カーンに話せば双方の仲は良くなる事だと思つて夜中に一人で抜出さうとした。スパイの下男は直ぐプリシラをつれてカーンの所へ行く」  スパイの下男というのが相当重要な役であったらしいが、俳優の名がわからない。その他軍人の役で俳優はたくさん出ているが、どれが誰なのかわからない。出演者名だけ列記しておこう。コンスタンス・コリア、ダグラス・スコット、ギャビン・ミューア、ウイリー・ファング、ブランドン・ハースト、ライオネル・ペープ、クライド・クック、ローリー・ビーティ、ライオネル・ブラハム、メリー・フォーブス。ご存じの名がありますか。 「土民軍は人質を得て大喜びである。だが、城外へ到着した英軍では司令官が発砲を禁じ、自ら単身でカーンを訪れた」  頂きに土民軍の城がある岩だらけの小高い山を、お祖父ちゃんの司令官がひとりで登って行くところ。ここも滋野氏によって「フォードらしい線の強さ」を褒められている場面である。 「プリシラは城門へ走り寄つた。彼女の身を気使つたカーンは自軍の発砲を禁じ、プリシラの純情に搏《う》たれた両軍は遂に血を見ることなく和解が成立した。そしてジョイスとブランディス中尉の上にも幸福な日が訪れたのであつた」  話のわかりやすさ、ユーモア、そして戦闘シーン、中学時代のぼくには充分面白かった。ところがこの映画、昭和十三年の封切当時には批評家から酷評されているのである。まずキネ旬批評欄、清水千代太氏の文章。 「アメリカ映画界に於ける最も良心的な監督の一人たるジョン・フォードに、我々が期待する何物も、此の映画には汲み取ることが出来なかつた。ここでは、サイレントの昔、彼がフォックス映画を作つてゐた時の様な態度で、安易に、ホウカム一点張で、フォードは終始してゐる。(略)幸ひ興行的に成功したから、フォードの会社に対する責任は果せたであらうが、シャーリイ・テムプルを主人公にせねばならぬ映画ではフォードにも何うすることも出来なかつた」  それでもまだ、「ただ、シャーリイ・テムプル映画としては良いものである、といふ事に満足するほかはないのである」と書かれているから救いようがある。これが前記試写評の滋野辰彦氏になると、もう糞味噌《くそみそ》の貶《けな》しかたである。シャーリイ・テンプルそのものがお嫌いらしいのだ。 「最小にして最大のスターであるテムプルの主演映画は、従来つねにこの子供一人を売ることに専念する結果、いはゆるスター・システムの最も悪い欠点ばかり目について、映画としては不具の形態を備へ、感じから言ふと不愉快至極なものばかりだつた。(略)テムプルの場合にしても、周囲からさうさせられてしまつた今日では、そのませた仕ぐさは見てゐると嫌らしいといふよりは、むしろ痛々しいのである。『軍使』のシャーリー・テムプルは、出場する場面の数は今までの映画より却つて少くなつてゐたように思はれる。ところがテムプルの芝居は、今までよりもつとあくどい不愉快なものになつてゐる。ある場面などは、殆ど私には見るに耐へない感じを抱かせたほどだつた。巧ければ巧いほど猿芝居に近くなる。それが邪道に入つた子供芝居の運命であつて、テムプル映画はその極限に近いと言つていいのだ」  この気持、わからぬでもない。特に明治生まれの日本人の感覚としては、ませた子供などというものはただ軽薄でいやらしいだけの存在だったのであろう。子供は子供らしく、というのは現代の日本人の大人にすらそう考える人がいるくらいである。まして明治人間においてをや。ぼくの父親なども、中学生時代のぼくを評して「子供らしさを失わないのがいい」などと成績表に記入していたし、今でも「俊隆や之隆は素直ないい子だ」などと当てつけがましくぼくに言ったりするくらいである。弟たちふたりにしても、もう四十歳前後なので「素直ないい子」もないものだが。父親への依頼心がまだ残っていて、経済的に援助してやりやすい子供の方に愛情が向くのは自然の親ごころ。大人と対等に口をきく子供は生意気だというので常に嫌われてきた。つまり日本人の子供は「親に甘えていた方が有利」という場合がしばしばあり、この辺が日本人の「甘え」の基礎構造になっている。ところが欧米では子供をできる限り早い時期から大人と同格に扱い、自立しやすくさせてやる。「ませた仕草」もけんめいの背伸びとして喜ばれる。さらにそもそも欧米ではジェスチュアが発達しているし表情も豊かである。これをおそるべき幼さでありながら適確に表現したテンプルが、父権社会の男性の眼にあくどく不愉快と映じたのも当然といえば当然。「巧ければ巧いほど猿芝居」と言われたのでは救われないが、おそらく「子役には演技力などむしろない方がいい」という考え方が基本にあったのだろうからしかたがあるまい。実際そのころの日本映画の子役といえば、無表情、無技巧の少年少女ばかりで、実際にもその方が日本の現実の子供像に近かったのである。  ぼくにしてみればそういった日本映画の、自己主張をしない無表情の、まあ、たまに泣くしか能がない子役が大嫌いだったので、テンプルちゃんの演技には一種の爽快《そうかい》さを感じこそすれ、ま、時代も違ったのであろうが、いやらしさはまったく感じなかった。  同じころに、前出、思春期テンプルの思春期映画「接吻《キツス》売ります」も見たが、テンプルちゃんが結構美しく成長しているのを見て可愛いなと思った程度であり、ぼくの中のテンプルちゃんはあいかわらず「軍使」のテンプルちゃんであった。最近はテンプルちゃんの「ハイジ」「小公女」「少女レベッカ」の三本が8ミリ・フィルムやヴィデオ・テープで手軽に見られるようだが、ぼくはあまり見る気がしない。テンプル映画の最高作と言われる「軍使」一本だけでたくさんだという気がするのである。それともうひとつ、最近のシャーリイ・テンプルの言動を聞かされるにつけ、ぼくにとって彼女のイメージの源が「軍使」一本であることは、なんとなく象徴的に思えてならない。  昭和四十二年、国連アメリカ代表委員になったシャーリイ、突如ベトナムの武力解決を主張しはじめたのは「軍使」の主演者にあらざる振舞い。皆、驚いただろうがぼくも驚いた。なぜ名子役というのは東西を問わず、成長するとガリガリの保守派やタカ派になるのだろう。これひとつの不思議。  その後、彼女の任命されたのがいみじくもガーナ大使。「軍使」のテンプルちゃんのイメージと重ねあわせた人が多いことだろう。  シャーリイ・テンプル、まともにとしをとっていれば、今年五十二歳になっている筈である(あたり前だ)。  おっと、封切当時の興行成績を忘れていた。写真でもおわかりであろうが、正月興行に「宝の山」なるローレル・ハーデイ喜劇との二本立てで大当りであったという。封切日は昭和十二年十二月三十日。封切館は帝劇、武蔵野館、大勝館である。 [#改ページ]  「路傍の石」  たいていの人は映画を場面《カツト》、場面《カツト》で憶えているのだそうである。これはストーリイを反芻《はんすう》するうち次第に形骸化していき、ついにはあと味のよい場面だけが残るからであろうと思う。しかし中には和田誠氏のように名|科白《せりふ》を中心にして記憶する人もいるし、ぼくや小林信彦氏のようにギャグだの、ショッキングなシークェンスだので憶える人種も存在する。そのようなぼくにとって田坂具隆の「五人の斥候兵」は実際まったく記憶に残りにくい映画だったのだ。満四歳の時に見た映画だからかもしれないが、それ以前に見た「隊長ブーリバ」は記憶しているのである。あまりにも記憶に残っていないので、じつはこの稿を書く寸前フィルム・センターへ行ってもう一度見せてもらった。なるほどぼくが記憶していないのも当然と思える作風の映画だった。そこで今回、この映画をとりあげる予定を変更し、この作品に続いて田坂具隆が撮った「路傍の石」をとりあげることにする。途中、「五人の斥候兵」を引きあいに出すことにもなるであろう。 「五人の斥候兵」は昭和十三年一月の封切当時、両親につれて行って貰い、大阪のガスビルで見た。父が大阪ガスの株主ででもあったのだろう、以後、しばしばガスビルへ行っている。演《だ》し物としては漫才、落語などがあり、最後に映画が上映されるという形式であったから、きっと株主招待会ででもあったのだろうと思う。「路傍の石」の方は小学校五年生のころ、吹田東宝での再上映の際に見ている。六、七年の間を置いて見たことになるが、実際に田坂具隆がこれを撮りはじめたのは「五人の斥候兵」の完成直後からで、封切は昭和十三年の九月二十一日である。 「路傍の石」の原作はいうまでもなく山本有三。そのような文芸作品を小学生がひとりでなぜ見に行ったのか。これはやはり前回に書いたテンプルちゃんの時同様、名子役片山明彦に対するライバル意識からではなかったかと思う。島耕二の息子で日活多摩川の名子役といわれていた片山明彦の名は噂だけではあるがぼくもよく知っていた。のちに「風の又三郎」などに出演している彼の名も、新聞広告で見て憶えていた。どれほどの名演技なのかという敵愾心《てきがいしん》で見たのであろう。そのころ男の子で名子役といわれたのは片山明彦だけであったし、そのはるか以前の爆弾小僧とか突貫小僧とかいわれていた子役たちのことはまったく知らない。石浜|朗《あきら》の登場はもっとあとである。片山明彦の演技は、当時、科白が棒読みだなどと思って馬鹿にしたものだが、まだまだ演技の良し悪しなどわかる年齢ではない。単なる嫉妬心だったのだろう。  おやおや。そう考えてみるとぼくの役者志望は前回書いた如き「中学一年のころから」どころではない。小学生時代からではなかったのか。さらにそれ以前はエノケンになりたかったのではなかったか。「エノケンのようになりたかった」のではない。なんと「エノケンになりたかった」のである。 (画像省略)  さてこの「路傍の石」は写真ページでもおわかりの如く文部省と日活の共同企画であった。それまでにも文部省は自主企画作品を中小プロダクションに撮らせていたのだが、どうも宣伝教化臭だけの強いろくな映画が出来なかった。そこで一流会社の第一級監督で製作したわけであり、これはその本格的第一回共同企画作品といえるのだが、結果的には大成功をおさめたものの、この文部省との共同企画のなまじの成功をかえって危険視する人たちもいた。キネ旬の合評会では友田純一郎氏が疑問を投げかけている。 「僕は文部省は教化映画に対する企画といふものは可成り軽く見てゐたのぢやないかと思ふ。(略)幸ひにして処女企画にかゝる傑作を生んだから好いやうなものだけれど教化映画といふものはもつと慎重な準備でもつと積極的にやるべきものだと思ふ。(略)この映画の成功に依つて教化映画といふものを手軽に考へて貰はないことを文部省の企画方面に付ては言ひたい。僕は企画の合理性でよくなつたのではなく、寧ろ作家がよかつたから、この映画はよかつたといふ気がする」  これはぼくの考えだが文部省は田坂具隆の前作「五人の斥候兵」の成功によって共同企画の話を持ちこんだのではないかと思うのだ。「五人の斥候兵」の評判たるや大変なものだったらしい。戦場に夫や兄弟や子供をとられた人が見ておいおい泣き、そうでない者も、特に男たちはすべて感泣したという。以後敗戦に到るまでの八年間、何十本となく撮られることになる本格的戦争映画の、これは第一弾だったわけだ。今見てこそ、なんたる単細胞映画とあきれ返りはするものの、ただひたすら真面目に戦場の悲壮感のみ追求したこの映画、これをあの戦争中にもし大人の目で見たとすればこれはやはり泣きますよ。泣きます。とにかく悪いやつはひとりも出てこないし、強いていえばちらほら見え隠れする敵兵と、抽象的な死ぐらいのものであり、あるものといえば戦友愛と望郷の感傷である。ただ一度だけ見明凡太郎軍曹が繁みの中の敵兵を突き刺すが、それすら、敵兵の姿は見せていないにかかわらず水町青磁氏は批評欄で「それにしても斥候兵が敵を突き刺したりすることがどうしても必要だつたとしたら、まだ『映画芸術』には研究さるべき余地は充分ある。この場合敵と渡り合ふカットが無くとも何か他に斥候兵の描写がありはしなかつたかと、僕は考へて見るのである」などと言っているくらいである。  とにかく文部省としては「五人の斥候兵」を見、評判を耳にしてさぞかしああこれが共同企画ならよかったのにと思ったことだろうとぼくは思うのだ。まさにぴったりの映画なのである。では第一回共同企画作品を戦争映画にしなかったのはなぜだろう。この時代の政府にはまだ、あまりにも軍国主義的宣伝になることをためらう気持があったのだろうか。そうかもしれない。この時代にはまだ前記友田氏のように勇気のある発言をする人もいたくらいだから。  そのかわりかどうか知らないが「五人の斥候兵」はベニスの国際映画コンクールに出品されることになった。これは日本としては初めてのことである。「蒼氓《そうぼう》」を出品しようという案もあったらしいが、あまりにもリアル過ぎて国辱になり兼ねないというところから、あきらかに芸術的には劣り、しかも外国人に理解してもらえるかどうかもわからぬ「五人の斥候兵」を出品することになったのである。これはいみじくも宣伝大臣賞(又は民衆文化大臣賞)を得たというから、文部省としてはますます田坂具隆への熱い思いを燃やすことになったのであろう。ついでながらこの年の同コンクールに、アメリカはディズニーの「白雪姫」を出品している。なんと、ぼくの四歳の時、すでに名作「白雪姫」は存在したのだ!  さて田坂具隆の方は文部省からの話にあまり乗り気ではなかったようだ。「五人の斥候兵」で自ら教化宣伝臭の強い作品を撮ってしまったので、この上文部省との共同企画では芸術性を無視され兼ねないというおそれがあったのではないだろうか。前記合評では清水千代太氏が「文部省との共同映画であることは、田坂にとつては有難迷惑であるらしかつた」と言い、これに対し滋野辰彦氏が「僕もさういふ噂は聞きました」といふと、「噂ぢやないんだがね」と千代太氏、頑張っている。まだまだ発言の自由な時代だったのだ。 「路傍の石」は「五人の斥候兵」と同じく荒牧芳郎が脚本を書いた。高重屋四郎改編とあるが、これは田坂具隆のペンネームであり、このころは監督がペンネームで脚本に加わることが多く、今でもその風が残っている。撮影は最初伊佐山三郎だったが、ロケを殆ど完了したところで病気になり、伊勢屋のセット以後は碧川道夫になった。  物語はよくご存知であろうが、配役を紹介しながらキネ旬を抜き書きする。 「修身の時間に次野先生が中学校へ志望する者を訊ねた」  次野先生が小杉勇である。「五人の斥候兵」では隊長役だったが、でっぷり肥っているので違和感があった。おまけに軍曹役の見明凡太郎もでっぷり肥っていて同じような髭づら、勿論服装も似ているから見分けがつかず、しばしばまごついた。次野先生の方がよほどぴったりしていたと思うのだが、合評では「五人の斥候兵」の演技が褒められていて「今度の小杉は馬鹿に見えた」と友田氏に評されている。 「伊勢屋といふ大きな呉服屋の息子麻太郎(三島鉄男)は得意気に手を挙げた。それを愛川吾一(片山明彦)は淋しく眺めてゐた」  片山明彦は傑作「真実一路」に出演して原作者山本有三から惚れこまれてしまった。この映画も田坂監督、片山明彦主演でという、作者からの強い要望があったという。 「吾一の父庄吾(山本礼三郎)は妻子を残して東京へ出たまゝ便りもないので、裏長屋に住んで母の賃仕事や内職で貧しい生活をしてゐた」  母のおれんが瀧花久子である。サイレント時代は可憐な八重歯の娘役だったが、この映画では美しく老《ふ》けていて、昔はなんとか小町と言われたなどという役柄にふさわしい。むろんぼくは美しい老けの瀧花久子しか知らないのだが。  中学へ行きたいという吾一。おれんが黙っているので吾一は拗《す》ね、おれんの作っている賃仕事の風船だか風車だかを投げはじめる。 「そんなこと言ったって」と、悲しげに言うおれん。貧乏のやりきれなさが子供だったぼくにもひしひしと伝わってきた場面である。ああいやだいやだ。おれ、こういう映画本当に好かんのよ。 「かうした中で家主稲葉屋の主人泰吉(井染四郎)と受持ちの次野先生の二人は吾一母子に何くれとなく親切だつた」  有名な、吾一が鉄橋にぶら下がるシーン。意地悪の山田咲二(飛田喜佐夫)と口論した末、鉄橋にぶら下がって見せると言ってしまい、いやでも実行しなければならなくなった吾一。ぶら下がる。汽車が近づいてくる。土手で見ていた咲二たちは怖くなって逃げ出す。ここのシーンは処理が悪くてあまり迫力がなかった。のちに大映の「狸になった和尚さん」で羅門光三郎がやはり鉄橋にぶら下がったが、その方がずっと怖かった。吾一の学友になるのは他に、麻太郎の妹で吾一と仲良しのおぬいが星美千子、吾一と正反対の性格で、原作では吾一にいろいろと影響をあたえる親友栗村鏡造が須田大三、勝ちゃんが青木虎夫である。 「急を聞いて駈けつけた次野先生は、気絶してゐる吾一を家へ送り届け、泰吉と相談を重ねて少年の心持を察して吾一を中学へやる学資を泰吉に出して貰ふ事にした」  大喜びの吾一とおれん。ところがここへ父の庄吾が帰ってくる。庄吾になった山本礼三郎、実に不気味だった。この人はいつもそうだが、まことに陰惨な雰囲気を持っていて、それが演技なのか実際がそうなのか判断がつかず、そこが尚さら不気味であり、日本ではちょっと他にこういう性格の俳優は見あたらない。  庄吾はたちまちこの話をぶち壊してしまう。泰吉と喧嘩してしまい、おれんと吾一はその長屋にいられなくなって、引越す。そして庄吾はまた東京へ行ってしまう。無一文で自暴自棄の男のやりきれなさを山本礼三郎はみごとに表現していたと思うが、合評では型通りの演技だと評されている。  このあたり、大人の世界のことがよく描かれていず、映画だけでは泰吉がなぜおれんに親切なのかがよくわからない。教化映画だから大人三人の関係をぼやかしたのであろう。父親もよく描かれていず、これは合評で千代太氏が「あゝいふ風に子供に対して無責任な父親があるのを見せては矢張りいけないのだらう。日本の家族制度を破壊するといふのでいけないといふのだらうと思ふ」と言っている。 「間もなく小学校を卒業した吾一は、仕立屋河銀(井上敏正)の世話で伊勢屋へ丁稚奉公《でつちぼうこう》する事になつて、おれんと別れ別れに淋しく暮さねばならなかつた」  伊勢屋の番頭忠助が見明凡太郎。最初の発表では星ひかるの役だったのだが、なぜか変更になっている。この見明凡太郎の番頭が実ににくにくしい。挨拶に来た吾一の名前を聞き、次野先生がいい名だと褒めてくれた吾一の名を勝手に変えてしまうのだ。「吾一は丁稚らしくありませんね。吾助にしなさい。吾の字だって、そんな難しい字でなくていい。一、二、三、四、五の五、それでたくさんですよ」  五助にされてしまった吾一、番頭につれられて主人の部屋へ挨拶に行く。伊勢屋喜兵衛が吉井莞象、妻お糸が三井智恵である。麻太郎とおぬいもいる。吾一は部屋に入れてもらえず、廊下にすわらされたままで番頭の言う通りに挨拶させられる。麻太郎にうっかり「麻ちゃん」と挨拶した吾一は叱られる。「今日からは、坊ちゃん、お嬢さんです」くすくす笑う麻太郎。その麻太郎は中学校の制服を着ているのだ。今まで親しかったおぬいちゃんも、掌を返したように冷たい表情で、手まわし式の蓄音機をまわして流行歌を聞いているだけ。ショックを受け、間の襖《ふすま》が閉められてからも床に頭をつけたままでじっとしている吾一。まわり続けている蓄音機の流行歌。いやないやな場面であった。  吾一の、大番頭小番頭にこき使われる毎日。風呂敷包を背負って歩いていると中学校の制服を着た麻太郎、鏡造、咲二があっちからやってくる。物蔭にかくれる吾一。  外出するおぬいのために履物《はきもの》を揃えてやる吾一。それじゃないわよ、と冷たく言うおぬい。  麻太郎は中学で習う算数がわからず、吾一に宿題をやってくれと頼む。目のまわるようないそがしさの暇をぬって問題を解く吾一。  喜兵衛が風呂に入っている。おい。ぬるいぞと叫ぶ。焚《た》き口で問題を解き続けている吾一。はっくしょん、と喜兵衛のくしゃみ。あわてて薪をくべる吾一。  吾一が麻太郎の宿題をしてやっていると知った喜兵衛とお糸は、吾一に菓子などをやって優遇し、吾一は公認の宿題係となるが、それで店の仕事を減らしてもらえるというわけでもない。 「新学期になると次野先生は学校を退めて、年来の志望であつた小説の勉強に上京して了つた」次野先生と吾一の別れのシーン。小杉勇が馬鹿に見えた、というのはおそらくこの場面のことだろう。合評では友田氏が「文学と心中するといふのは『人生劇場』で沢山だ」と言い、内田岐三雄氏が「この映画は吾一が父の情婦の家を出るまでなのだから、あの演技は拙かつたと思ふ。映画にもつと後の方で金を使つてしまつた次野先生が出て来るといふのならあの演技でも一応許容出来るけれども、それがないとすると、小杉はもつと考へる可きだつた」と言っている。これはつまり映画には出てこないものの、原作ではその後、次野先生が落ちぶれてあらわれるので、そのことを言っているのである。小杉勇は「人生劇場」と「土」と「路傍の石」と、三本同時に出演していた。友田氏に「人生劇場」がそのまま出て来たんだろう、などとも言われている。 「或る日、母が急病だといふ報せに吾一は家へ駈けつけた。やせ衰へて尚も優しく頬笑む母を見て、彼は為す術《すべ》も知らずただ抱きついて泣くばかりだつた。おれんの病気を聞いた稲葉屋は、病状が思はしくないのを見て直ぐ入院の手続をしてくれた。すると又も病院へ再び庄吾が姿を現した」ふたたび山本礼三郎が不気味にあらわれるが、ここの部分のいきさつも映画でははっきりしない。合評では千代太氏が「映画では母親が入院した所で、親父が病室に顔だけ見せて、引込んで、それから本屋の前に姿を現はすカットがあつたでせう。あすこは本屋さんに強請《ゆすり》に行く所なんだ」と言い、友田氏が「そんな感じはしたけれども……自分の家庭自身が自分を不幸にさせる原因を持つてゐたので、さういふことがもう少し明確に描けて欲しかつた」と言っている。本屋とは稲葉屋である。 「夫と泰吉の争ひに、身の置き所もなくなつたおれんは、あはれ夜の冷い流れに身を投じて不幸な一生を終へた」  誰もが泣くシーンである。吾一が家へ駈けつけるとすでに人が集まっている。その中に父や河銀の姿を見て、吾一は家へ入れない。父が出てきて吾一を呼ぶ。吾一は数歩あと退《ずさ》りをしてからぱっと駈け出し、誰もいないところまで来て激しく泣く。観客も泣いている。ところがぼくはこういうところではあまり泣かないのである。 「母の死が吾一の運命に大きな変化を来たした。彼は伊勢屋へ出入りの染物屋京屋(上代勇吉)に連れられて東京の父の許へ送られる事になつたのである」  京屋との道中が比較的長い。京屋は商売であちらこちらと寄り道するからである。「いつ東京へ行くの」と、吾一が何度も聞く。 「憧れの東京へ出る喜びが彼の悲しみを忘れさせたが、父親の住んでいる久美田住江(沢村貞子)の家へ辿り着くと、休む間もなく吾一は住江や妹の加津子(松平富美子)から追ひ使はれた」沢村貞子、このころからこんな役ばかりしていたらしい。  東京の時代色は鉄道馬車などを出してよく工夫していた。今ではこんなシーン、もう撮れないだろう。合評でも考証を褒められている。機関車、切符、本、雑誌など、捜し出すだけでも大変だったらしい。  住江は庄吾の妾《めかけ》だが、庄吾はこの家へもまた全然寄りつかない。この住江の家は下宿人を置いている。ひとりは当時の人気俳優江川宇礼雄の扮する熊方信義、もうひとりは原作には出てこないモダン学生で、配役表には出ていないが潮万太郎が演じている。 「かうした中で彼の味方になつて呉れるのは絵の勉強をしてゐる熊方だけだつた」  画家熊方になった江川宇礼雄が演じるのは、さりげない言動のうちに吾一を明るみに導くという難役。達磨が足を出すこともある、などと謎めいたことを言ったりする。内田岐三雄氏は「あの江川はいい。凡庸の俳優や凡庸の演出家だつたらあれは詰らない喜劇的人物になるだけだが」と言っている。一方、潮万太郎の方は友田氏が「昭和を描いた映画の中に出て来て差支ない大学生だ」と言い、千代太氏は「あの潮万太郎はいかんね」と言っている。 「或る日皆が芝居に行つた留守に、熊方は吾一に開化丼を御馳走した。翌日、出前持が丼を下げて行つた後で、住江と加津子から悪口雑言を浴びせられた吾一は、遂に我慢できなくなつて掃除してゐた洋燈のホヤを次々に地面へたたきつけると、呆気にとられた彼女等を後に何の恐るゝこともなく此の家から出て行くのだつた」  最後のクライマックス、吾一がついに「足を出す」場面である。縁側でホヤを磨いている吾一。座敷では女ふたりが無神経に、吾一の胸にいちいち突き刺さってくる厭味を聞こえよがしに並べ立てている。ついに吾一は「エーッ」と叫んでホヤを庭石に叩きつける。「エーッ。エーッ」全部わってしまう。溜飲《りゆういん》の下がるところだが、ここのところ、合評では千代太氏が「普通のお客の気持を考へて見ると、ランプのホヤを割つたゞけでは足りないやうな気持がしやしないかと思ふ。ホヤだけでなくランプ全部を叩きつけて割つて貰ひたいといふ気持になるだらうと思ふ」などと言っている。女ふたりが呆然としている中を吾一はしっかりした足どりで座敷へ戻り、きちんと帽子をかぶって出て行く。ラストシーンは鉄道馬車の通るあの大通りへ吾一が去って行くところ。  場面を多く記憶しているところから考えるに、ストーリイそのものがよほど感銘深かったのであろう。また、片山明彦の演技はやはりよかったらしい。合評でもべた褒め。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  清水 片山明彦は何といつてもいゝね。  友田 文句ないね。  清水 なんか子役らしい厭味がないやうに僕にはみえた。  友田 あの位利巧さうな感じのある俳優はゐないだらう。この映画は片山明彦がゐなければ出来なかった。  清水 松竹にもいい子役が居るけれども、ああいふ怜悧《れいり》さを持つてゐないものね。この片山明彦は実際よりいゝらしいよ。実際は利巧過ぎて小生意気らしい。矢張り撮影所ずれして居るんだらうが。さういふ点、田坂が十分ためて、吾一の性格になりきらして居る所がいゝんだと思ふ [#ここで字下げ終わり]  と、いった具合。  封切られたのは浅草富士館、新宿帝都座、渋谷、神田、麻布、横浜の各日活館で、たいへんな入りだったらしい。景況調査欄によれば次の通りである。 「実に嵐の如き絶讃の声をあらゆる方面から浴びて『路傍の石』は登場した。これこそ本当の傑作として、こんなに迄讃へられた日本映画は未だ曾つて一寸その例がない位である。洋画禁輸以来、伸びなければならない邦画まで質的にぐつと低下して、良い映画を見たいファンの欲望は、秋のシーズンが来ると共に愈々切実である時『路傍の石』は断乎としてこれに答へるが如く公開された。そして名画傑作の真価を広く力強く今日の映画大衆の前に披瀝《ひれき》し、堂々たる興行成績も併せ克ち得て高らかに凱歌を奏した。名画のヒット、今後の各社の製作方針に之は重大な示唆を与へるであらう。封切成績は『五人の斥候兵』を凌ぎ、頭数では『忠臣蔵』を凌駕《りようが》してゐる」  日本人の人道主義好み、真面目好きのあらわれがこの映画の大ヒットなのであろう。ぼくはこういう映画は好きではない。しかしこの映画のリアリズム描写は貴重だと思う。フィルムはまだあちこちに残っているそうなので、焼増しなりなんなりしてながく保存すべきであろう。勿論、映画はすべて保存しておくべきだとは思うが、この映画など特に史料的価値がある。明治三十年代の正月風景、街頭風景、文明の利器としてあらわれる小道具、また、しばしば風呂敷包みを背負ってあらわれる跛《びつこ》の行商人といったさまざまな風俗の描写、商店のたたずまいや風習、すべて今の映画からは求められないものばかりだからである。  ところで文部省は共同企画第二弾として東宝で「長曾禰虎徹」を作った。丸山定夫が刀匠虎徹を演じるという変な映画で、あまり評判にはならなかったようだ。  景況調査にもあった如く、このころになるとますます洋画の輸入は少くなり、在庫も減り、キネ旬の洋画欄は淋しくなる一方であった。前記ディズニーの「白雪姫」にしても、「白雪と七人の小人」という原題通りのタイトルでながい間キネ旬に広告されてはいたものの、ご存じの如くこれが封切られたのは戦後数年経ってからである。  ただ、RKOの配給でシリイ・シンフォニイ・シリーズだけは入ってきていた。この年の三月三十一日には傑作「村の水車」がSY系で封切られている。いうまでもなくディズニーのカラー短篇漫画で最高傑作とされるものであり、ほとんどの読者はご存じだろう。村のはずれの荒れ果てた風車小屋の嵐の一夜と、そこに住む小動物たちの描写。いうまでもないが音楽がこれまたすばらしい。  また、この年の正月映画としては日劇で東宝映画「エノケンの猿飛佐助」が封切られていて、ぼくはこれを戦後見ているが、実にもう何ともはや見るに耐えない駄作であったからこの映画史にはとりあげなかった。ギャグ皆無どころか、エノケンの動きの面白味さえ皆無であり、エノケン映画の魅力のひとつであったジャズ・ソングさえ出てこない。エノケン映画としては最劣等の作品である。ところがそんな駄作でも封切館では好成績であったというから、当時のエノケンの人気は凄いものであったのだ。スタッフだけを書いておこう。原作山本嘉次郎、岡田敬。監督岡田敬。撮影鈴木勇。音楽栗原重一。岡田敬、この映画に限り、いったいどうしたのだろう。エノケンと気が合わなかったのだろうか。  このころに封切られている目ぼしい作品はといえば他に、チャップリンの「モダン・タイムス」がある。ぼくがこれを見たのはすでに大学生時代だった。周知の映画でもあり、故にこれもこの映画史からは省く。この映画は二月一日に京阪神の各松竹座などで関東に先立ち、封切られている。  マルセル・カルネ第一回監督作品「ジェニイの家」は五月二十六日、帝劇、京阪神松竹座等で封切られている。ぼくはこれを見ていない。喜劇ではないようだが、マルセル・カルネ作品でフランソワズ・ロゼエ主演とあれば、機会さえあれば一度見ておきたいものだ。  ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帖」は六月第一週に帝劇で、ギャラ・プレヴューとして封切られた。ぼくがこれを見たのも大学生時代である。戦後何度も上映された名画だから、これも省く。名作は嫌いなのだ。  八月十一日にSY系で「ハリウッド征服」という短篇が封切られている。登場する役者がすべてチンパンジーである。ぼくはこの猿の映画を戦後、例のおカマのメッカ戎橋《えびすばし》小劇場で見た。吹き替えのせりふが気が利いていたこと、女優役のチンパンジーが泣く場面になるたび衣裳の下へ滝の如く小便を垂れ流したことを憶えている。 [#改ページ]  「冬の宿」  前回「路傍の石」に続き今回もまたいやないやな感じの文芸映画「冬の宿」である。ぼくがこれを見たのはもはや不良少年時代ではなく、すでに大学生時代であり、ここにとりあげる映画としてはちょっとふさわしくない。ただ、ひどく印象に残ったのと、他の映画史の類にあまりとりあげられていないところから、特に方針を曲げてここへ記しておくことにした。  大学何年生の時だったろうか。講義が終り、帰ろうとして同志社の校庭を歩いていると、明徳館の前に立看板があり、どこやらのクラブ主催の映画会とやらでこの「冬の宿」を上映するらしいことを知り、思いがけなく昭和十三年に作られたこの古い映画を見ることができたのである。寒かったから冬ではなかったかと思う。新築されたばかりのモダンな明徳館の階段教室は、当時同志社ではいちばんでかい教室で、教師はマイクで講義した。千人ほど入れたと思うが、映画を見た時は八|分《ぶ》の入りであったと思う。  昭和十三年に東京発声映画で製作され、十月、東宝で配給されたこの「冬の宿」は、第一書房から出版されて文學界賞を受賞した阿部知二の長篇小説をもとにしている。だが映画は原作とだいぶ違っている。どこがどう違っているかは、あらすじ紹介中においおい説明していこう。脚色は八田尚之、監督は豊田四郎。このころ「若い人」「鶯」「泣虫小僧」「頬白先生」などを作った文芸コンビである。撮影は小倉金彌。 (画像省略) 「霧島嘉門の佗《わび》しい住居は郊外の高台にあつた。地方の旧家に生れ親譲りの財産で羽振りをきかせた事もある嘉門は、持ち前の放埒《ほうらつ》な行動が災ひして、今は財源局に勤める一介の門衛であつたが、モーニングに山高帽を着けて今でも見栄を張つてゐた」  主人公霧島嘉門を演じているのが勝見庸太郎である。勝見庸太郎などと言っても現在、よほどのお年寄りでない限りどなたもご存じあるまいが、実は無声映画時代の大スタアである。大正九年以来松竹にいて飛ぶ鳥落す勢い、彼にさからう者が撮影所内にひとりもいなかったというから凄い。写真でもおわかりだろうが容貌魁偉《ようぼうかいい》、大スタアの貫禄充分の猛優であったという。ところが松竹へ、日本映画史上初の大学出インテリ俳優、鈴木伝明が入社してきて情勢は変った。モダンな二枚目の時代になっていたのである。さらに岡田時彦、高田稔が入社してきて、勝見庸太郎たちまち影がうすれ、映画から遠ざかってしまう。鈴木伝明は大正十五年、すでに松竹で「海人」などという映画を撮っているし、岡田時彦も昭和四年「恋愛第一課」を撮り、同じ年に高田稔も「大学は出たけれど」を撮っているから、勝見庸太郎の没落はこの辺であろう。この「冬の宿」まで十年近く、映画に出ていなかったことになる。没落したかつてのワンマン・大スタアを引っぱり出してきて、没落して無一文の癖に虚栄心だけ旺盛で威張っている中年男を演じさせようというのだから、豊田四郎監督もずいぶん皮肉なことをするものだ。邦画版「サンセット大通り」といったところであろうか。むろんぼくが勝見庸太郎を見たのはこの映画一篇だけ。  ところがこの勝見庸太郎、柄《がら》も容貌も嘉門としてまことにサマになっていて成功しているのだ。怒号のような声で日常の会話を行うといった粗野で無知なところ、銭湯で、がぼっ、ぶるぶるぶるなどと湯にもぐったりする傍若無人《ぼうじやくぶじん》なところ、みごとである。こういうひと、よくいるよなあ。 「妻のまつ子は長い間の苦労に疲れ乍《なが》ら、二人の子供を抱へて賃仕事に身をすりへらしてゐた。心の慰めを失つた彼女は狂信的な基督《キリスト》教徒になつて、酒色を求める夫を救はうとした」  妻まつ子を演じているのはムーラン・ルージュの女優で映画初出演の水町庸子。これがまたまさにぴったりの嵌《はま》り役。もはや色気も何もないがりがりに痩《や》せたピューリタン型の冷感症女性。何かと言えばアーメンを口に唱える。こういう女が妻ではたまるまいと思うが、相手が嘉門のような男だから神様の効果はまったくなく、むしろ逆に嘉門の酒量をふやすだけ。家族四人で食卓を囲んでいてもこの妻君がぼそぼそと口にするのは神様のことばかり。そして必ず最後はアーメンで終る。嘉門もやけくそのようにアーメンと大声で唱え、がさがさがさっ、と茶漬をかきこむ、といった具合の日常。こういう家庭、よくあるよなあ。  この水町庸子、抜群の演技を認められてか以後しばしば映画に出演するようになる。ふたりの子供は、兄の輝雄(七、八歳)を林文夫、妹の咲子(四、五歳)を島絵美子が演じている。 「かうした奇妙な夫婦の家に二階借をしたのは、生活意欲を失つた大学生村井であった。嘉門は妻の目を盗んでは村井の室を訪れ、彼を安酒場へ誘つて怪し気な女性観を披瀝するのだつた」  大学生村井を若かりし頃の北沢彪が演じている。端正なマスクをした知的な青年俳優として昭和十一年にP・C・Lからデビューしたばかりだった。  この大学生が原作では作者そのものなのである。つまり小説「冬の宿」は作者阿部知二を思わせる大学生の心象《しんしよう》風景や観察を通しての人の世の生を描いていて、霧島嘉門は小説中では何人かの主要人物のうちの一人に過ぎないのである。一方映画は嘉門を中心に据えての客観描写に終始してしまっていて、学生村井の心象風景は描かれず、村井をただ、性格破綻者嘉門の、批判的な傍観者にとどめている。  嘉門がいつも呑みに行くキング軒の主人は南部邦彦が演じている。 「嘉門は役所のタイピスト三宅和子と親しくなり、課長が職権を笠に彼女を誘惑しようとしたのに義憤を覚えて課長室へ暴れ込んだので、到頭役所を馘《くび》になつた」  三宅和子を演じるのは十八歳の原節子。つい一年ほど前、日活の名画祭で「河内山宗俊」を見るまでは、ぼくが見たいちばん若い原節子はこの映画の彼女だった。写真を見ていただきたい。その美しさは輝くばかりである。ただしこの映画での出演場面はごく僅かだった。  立看板には原節子の名前しか書かれていなかったし、一方には二枚目の北沢彪が出ているので、当然この若いふたりが出会い、恋愛するのだろうという思いこみがあり、映画が始まってだいぶ経過し、だいたいのムードが呑みこめてからも、まだ最初の思いこみにとらわれていたためか、最後までこのふたりが別べつの場面にのみ出演していて顔を合わさずに終ったので、ちょっと拍子抜けがしたものだ。たしか、嘉門が馘首《くび》になると共に三宅和子も役所を辞した筈である。 「而も彼は見舞に来た同僚に僅かばかりの退職金で饗応につとめ、子供の咲子が病気になつても薬代すらない有様だつた」  同僚の門衛に扮しているのが堀川浪之助、押本映治、伊志井正也、田辺若男、井田芳美といった連中。堀川浪之助も押本映治も、松竹で勝見庸太郎と同じころ、主役、準主役として活躍した連中である。豊田四郎監督の皮肉は徹底している。他の助演者は、小使に平陽光、青野瓢吉、救世軍中尉に藤輪欣治、老紳士に一木礼司、競馬の予想屋に原田耕一郎。  退職金を使ってしまった嘉門は、子供を医者に診《み》せる金もない。そこで下宿人である大学生村井に、十円貸してくれと頼む。「貸せない。貸すとあんたは呑んでしまう」などといいながらも、村井は結局、十円貸してやるのである。 「かうしたなかへ、故郷に残つてゐる嘉門の所有地を或る会社から買収の交渉があつた。彼は故郷へ帰つて久し振りの大金を握ると、忽ちそれを酒と女に費消してしまつた」 「前半は明るく、後半は暗く」というのが豊田四郎監督の構想だったそうであるが、これは原作者阿部知二の「笑つた人は、見終つた後から、悲しさを感じ、悲しんだ人は、後から吹き出す、といふやうになればいいのだが」という、この映画に寄せた一文に応える為だったのかもしれない。映画はこの辺ではすでにどっぷりと暗くなっている。しかしこの演出方針も、映画評の友田純一郎氏はやや疑問視している。 「勿論、新派悲劇やチャンバラ物ばかりやつて来た勝見庸太郎に嘉門その人に化身する芸のありやうはないが、それにしても豊田の前半に於ける喜劇的手法は勝見の嘉門を剥製《はくせい》化してゐる。演者、演出者にかゝる欠陥を有してゐたが、後半に入つて嘉門が一等車を激昂しておりるところ、カフェーで『シャンパン!』と叫ぶところなぞに入ると、画面のなかに嘉門の過去が浮び上つて来て、演者、演出者共に美事である」  嘉門がカフェーでお大尽《だいじん》遊びをするくだりは二重焼付の効果を出している。酒に酔い、ご機嫌で大笑いしている嘉門の顔にダブって百円札がひらひらと大量に舞いあがっていく。やがてその札の数が三枚、二枚と少くなってとんで行くにつれ嘉門の顔に苦渋《くじゆう》の色が浮かび、ついには頭をかかえる。そして今度は妻や子供の顔が浮かびあがる。クライマックスである。 「嘉門は失敗を取戻すため競馬によって一攫千金《いつかくせんきん》を夢みたが、それも空しい最後の足掻《あが》きに過ぎなかつた。かくて嘉門があれほど厭つた崖下の貧民街に淋しく移らねばならぬ日が来た。村井は黙々と嘉門の後を従つて行くまつ子の姿を、うつろな眼で見送つてゐた」  家財道具を積んだ大八車を曳《ひ》いて住宅街の坂道を下っていく嘉門。彼方《かなた》は貧民街だ。彼に従う妻まつ子と二人の子供。と、一陣の風が吹いてきて嘉門の頭の山高帽がとばされ、坂道をころがって行く。|がに股《ヽヽヽ》になり、大八車を曳きながらあわてて帽子を追う嘉門。小走りに車のあとを駈けるまつ子。まことに哀れなラスト・シーンである。「冬の宿」全十巻の終り。  貧民街へ移ってからも嘉門は尚も威張り続けるであろうし、最後は乞食になるのでは、などと予想させるところがますます哀れである。見終ったあとのどうしようもないやりきれなさは、他ならぬぼく自身が嘉門と同じ人間的弱さを持っていることを自覚しているからであろう。少年時代の際限なき映画へののめりこみも、意志の弱さとB型の血がそうさせたのではなかったか。この映画はぼくにひとつの教訓をあたえてくれたのだ。ぼくが賭博にはいっさい手を出さないのも、いざのめりこめばとことんのめりこみ、妻子や財産を省みなくなるであろうことぐらいは自分で知っているからだ。色川武大と親しく交際しはじめたぼくのことを小松左京がひどく心配し、一夜色川氏に「筒井には絶対に賭博を教えないでくれ」と頼んだという話をあとで聞かされた。さすが小松さん、人間を見る眼は確かである。  しかしこの暗い映画は、ある程度誰にでもそのような気持を抱かせたらしい。批評欄で友田氏は「かく言ふ筆者にしてすら身内に嘉門の末裔の存することを否めないし、僕の周囲にも僕は多くの嘉門を見る」と書き、また、この映画を見たさる軽演劇の役者が「まるでわしのことをかいたみたいな写真やな!」と言ったことを紹介している。  また試写評の水町青磁氏は、ほとんどの紙数を原作の紹介に費したのち、「ほんたうは此の作品は、いゝ意味の正喜劇になるべきだつたのではないか。それが何か、悲惨な、暗さに落ちこんでしまつたのは惜しい。けれど、勝見庸太郎と水町庸子の起用は成功である。映画を見て、原作に描かれてゐる性格に好適なものは、この二人を除いては、全映画界でも、さう易易と見当らないことを発見した」と書いている。  批評家からは概《おおむ》ね好評だったが、さて、興行成績はどうだったのだろう。興行価値欄には「東発の力作、一流館の呼び物に適当。ただし、処によつて適、不適が極端」と書かれているが、まさにその通りの成績だったようだ。東京は十月五日に日比谷劇場など、大阪は二十日に梅田映画劇場などで封切られている。大阪は「エノケンの大陸突進」前後篇との併映のため、好成績だったらしい。  ぼくはこの映画の暗さは、性格悲劇としての暗さだろうと思っていたのだが、各批評を読むうち、どうやらこの暗さが当時の世相を反映した暗さであるらしいことを知った。大陸での戦争が激化し、このころのキネマ旬報には映画関係者の戦死のニュースが載っている。「○○戦線にて名誉の戦死」となっていて、没した日時や死に場所は伏せ字だ。そしてこの年の九月十七日、山中貞雄監督が三十歳の若さで戦病死している。そのニュースの載った号に筈見恒夫氏が追想の一文を寄せ、続く号では何度か追悼文、追悼座談会が載せられている。及川道子が肋膜《ろくまく》で、二十八歳で死んだのも同じ月の三十日である。  さて、同志社明徳館の大教室でこの映画を見終ったぼくは、あーいやだいやだ、外はもうまっ暗だし、寒いし、こんな暗い映画を見たあとで一時間半も電車に乗って家まで戻らねばならないのかと思い、げんなりしていた。そこへ「あなた、筒井さんでしょ」と、声をかけてきてくれた女性がいた。同大生なのだが、会うのははじめてだった。この女性のことは、彼女が現在結婚して幸福に暮している上、一部で少し名の知れた人なので詳しくは書けないが、とにかく心を暖めあう相手としていい人が声をかけてくれたもので、その夜は彼女と遊び歩いた。身体まで暖めあったのはその夜ではない。さらに十数回会ってからである。 [#改ページ]  「エノケンの法界坊」 (画像省略)  所はお江戸向島、白鬚境内は桜の花が満開である。桜並木をカメラ(鈴木博)が仰角で映して行く。法界坊(榎本健一)の歌が聞こえてくる。メロディは当時モーリス・シュバリエが歌ってヒットしていた「LOUISE」をそのまま使っている。(音楽は例によって栗原重一) (画像省略)  やたらに高い下駄を穿《は》き、うす汚れた法衣の法界坊が行く。片手で「浅草隆泉寺釣鐘建立」の旗を持ち、片手で張りぼての釣鐘をのせた車を引っぱっている。これを種に信心深い連中の懐をはたかせようという魂胆である。この法界坊の日頃の悪事を知っている若い者がとり囲む。たちまちぺこぺこ謝る法界坊。だが許して貰えず、車ごと池に投げ込まれる。泳ぐ法界坊の傍で釣鐘が水に浮かんでいる。  この映画のフィルムは今でも東宝にあり、見ることができるが、なぜかこの最初のくだりが失われてしまっている。  場面変ってここは道具屋の永楽屋。大店《おおだな》である。店先を小僧(今泉浩)が掃除している。大阪屋源兵衛(中村是好)がやってきて、奥の間に通される。この男、永楽屋の娘おくみ(宏川光子)に惚れていて通ってくるのだ。そのおくみは手代の要助(小笠原章二郎)に惚れているのだが、要助はお家重代の宝物|鯉魚《りぎよ》の一軸を探してお家再興を計るため手代に身を落した大望ある身。裏庭ではこの要助に、忠実な番頭甚三(柳田貞一)がそのことを懇懇と言い聞かせているのだが、要助は座敷にいるおくみに気をとられたり、あくびをしたり。  座敷で源兵衛が永楽屋の女主人おらく(英百合子)に見せているのは、その鯉魚の一軸。これと引き替えにおくみちゃんを頂きたいという源兵衛の難題。おらくは言葉を濁している。  この映画はエノケン一座の東宝入社第一回作品で、エノケン一座以外の出演者は小笠原章二郎と英百合子だけである。また、斎藤寅次郎にとっても東宝入社第一回監督作品であった。 (画像省略)  永楽屋の店先に法界坊が例の※[#歌記号、unicode303d]なーむあーみだーぶーを歌いながらやってくる。番頭の長九郎(如月寛多)が出て来て金を渡そうとする。受け取りながら法界坊。「イヤご奇特なお志ですな。来世はみ仏のお恵みがございましょう」と、傍にいる小僧が「この坊主インチキだよ」「おっ。な、何がインチキだ」「さっき大勢の人に、泣いて謝っていたじゃないか」「あれっ。この野郎。つまらねえとこ見やがって。この野郎」法界坊、小僧を追いかけて店の中へあばれこむ。  裏庭で、お詣《まい》りに行くからついて来ておくれ、と要助に言うおくみ。そこへばあや(浪木たづみ)が、お母さまがお呼びですよと言いにくる。おくみは源兵衛に会いたくない。わたしこれからお詣りに行くのよ。これを聞いた源兵衛、「ではわたしがご一緒に」と言い出す。  そこへ店の者から、法界坊があばれていますという知らせ。まあこわいというおくみに源兵衛は「なあにあんな乞食坊主、この源兵衛が、すってんころりんと投げとばして見せます」だが、店へ出て行った源兵衛、法界坊の手で逆にすってんころりんと店さきに抛り出される。そこへ甚三が出てきて、今度は法界坊を店先へ投げ出す。悪態をついて逃げて行く法界坊。「やいやいこの有難い名僧知識を、よくもすってんころりんと投げとばしやがったな。おぼえていろ」  源兵衛、横にいる甚三の肩を抱き、「おくみちゃん。ほらほら見てごらん。法界坊が逃げて行く。ほらほらおくみちゃん」甚三の顔を見て驚き「あれっ。おくみちゃんは」甚三から、おくみが要助と参詣に出かけたことを聞かされた源兵衛、むっとして「それは怪しからん」  桜の花の境内、要助とおくみのラヴシーンである。ここで小笠原章二郎、「モダン・タイムス」の主題曲で当時の流行歌だった「ティティナ」のメロディ(原曲は二拍子だが、ここでは四拍子にしている)で歌い出す。 (楽譜省略) 「まあ要助さんったら」と照れるおくみ。要助は同じメロディで歌い続ける。 ※[#歌記号、unicode303d]髪はからすの濡れ羽色、眉は三日月綺麗ですね。 ※[#歌記号、unicode303d]柘榴《ざくろ》のようなその唇は、つやつや光って玉のようね。  一方法界坊は、またしても彼にだまされた連中に見つかって逃げまわるが、とうとう捕まってしまう。ここのところの追いかけのギャグや釜《かま》のくだりのギャグの連続は、まさに斎藤寅次郎の独壇場。だが、なぜか現在この部分のフィルムも失われてしまっている。  四つ辻の中央にある大釜に、連中から寄ってたかって押し込まれてしまった法界坊、今しも蓋《ふた》が閉じられんとする時、大声を出す。 「待った待った。ちょっと待ってくれ」「なんだ」「辞世の句をひとつ」法界坊、気取って「濡れ衣に、法界坊は釜の中」  何を言やあがるというのでふたたび無理やり押し込まれ、蓋がされ、釜の下の焚木《たきぎ》に火がつけられる。ここで十人あまりの連中が釜のまわりを歌いながら踊りはじめる。この時の曲はたしかにどこかで聞いたジャズ・ソングなのだが原題不明。どなたかお教え下さい。こんな曲である。 (楽譜省略)  と、道路の真ん中から穴をあけて法界坊が這《は》い出してくる。皆が踊っているのを見て自分も浮かれ出し、輪の中に入って踊り出す。隣りにいた浪人風の男、法界坊を見て首をかしげ、踊りをやめる。全員、踊りをやめて法界坊を眺めまわし、首をひねり、がやがや言いながら釜の方へ行く。「ん。なんだい何だい」と言いながらついて行く法界坊。  みんなで蓋をあけ、中を覗く。法界坊も一緒にのぞきこむ。釜の底にでかい穴があいている。法界坊、左隣りの男の肩を叩き、パントマイムで説明する。ごにょごにょごにょ(穴を掘る手つき)ぴょい(穴から出る手つき)そして自分を指さす。法界坊のパントマイムを真似ていた隣りの男、あっ、この野郎というので法界坊をぶん殴ろうとするが、法界坊は逃げ、鉄拳《てつけん》は法界坊の右隣りにいた男に命中。この辺の呼吸の絶妙さ、文章では表現できない。  逃げてきた法界坊、町かどの桶《おけ》の中にかくれる。棍棒《こんぼう》を持って追ってきた浪人風の男、あたりを眺めまわす。さらにもうひとりの男が追ってくる。法界坊桶の中から上半身を出し、この男の頭を棍棒でぽかり。これを何度もやり、ついにふたりが喧嘩をはじめたところへ法界坊が出てきて仲裁に入る。「違う違う。やったのはあんたじゃないよ。やったのは」自分を指さす。「このおれだよ」ふたたび逃げ出す法界坊。  このころ、要助とおくみちゃんも、後を追ってやってきた源兵衛と長九郎に見つかって逃げ出す。要助とはぐれてしまったおくみが木の蔭にかくれて彼方をうかがっていると、彼女と背中あわせに彼方をうかがいながらあと退りしてきた法界坊。おくみはてっきり要助と思い、うしろ手に法界坊の手を握る。喜んだ法界坊、おくみの手をとって、尺取虫の指づかいで彼女の腕にさわっている。うしろを振り向き、法界坊の顔を間近に見てうーんと気を失うおくみ。彼女を抱きかかえたまま、困ったやら嬉しいやら照れくさいやら、まごまごする法界坊。この部分のフィルムも今は失われてしまっている。  場面が変れば裏長屋の法界坊の家。おぼろ月夜。夜桜。トスティのセレナーデが流れている。部屋には気を失ったままのおくみ。法界坊、庭に出て柄にもなく月を眺め「今夜はどうしてこう悩ましいんだろう。『月の夜に……月の夜に、法界坊は、悩みけり』か」などと下手な句を苦心して作っている。外には長屋の連中がいっぱい集まって中を覗き込んでいる。「先生。いったいありゃあ何者ですか」と熊公(金井俊夫)。易者(田島辰夫)、筮竹《ぜいちく》を出して占う。「女じゃ」「そんなことわかってるよ」「わかってるなら聞かんでもええ」  部屋に戻った法界坊、おくみの顔をつくづくうち眺め「この髪、これがほんとにからすの濡れ羽色っていうんだろうな。見てると、なんとなくこう惹きつけられるようだ。眉毛。まるで三日月様を見てるようだ。それにこの口、柘榴のようにつやつやしている。この姿を、ひと目見てからというものは……」  ここでエノケンお得意の、例の※[#歌記号、unicode303d]寝ては夢起きてはうつつ幻の、が始まるのだが、歌詞も振りも「どんぐり頓兵衛」の時とほとんど同じ。後半、※[#歌記号、unicode303d]この道ばかりは別ものじゃ、あたりから木魚や鉦《かね》を叩き大声で歌いはじめ、たいへんな乱れようだが、それでもおくみがまったく眼を醒まさないというのがおかしい。※[#歌記号、unicode303d]そういううちにもお嬢さん。あなたの顔見りゃ、わしゃとてもいけやせぬ。  虎公(杉ノボル)がベリベリと壁を抜いてしまう。法界坊、あわてて障子で穴を塞《ふさ》ぐ。と、早くも鶏の声。ひと晩起きていたのだ。  眼が醒めたおくみ、なぜか法界坊を、危機を救ってくれた恩人と思いこみ、このような徳の高いかたとは知らず、などと言い出す。法界坊は照れる。ひと晩中覗かれていたのでは何もできるわけはなかったのだ。だがおくみは法界坊を信じ、悩みごとを打ち明ける。和尚《おしよう》さん、聞いてくださいこのわたし、恋しいひとがいますのよ、と歌いはじめるのだ。 (楽譜省略)  そして前記、要助の歌ったあの※[#歌記号、unicode303d]髪はからすの、をそのまま歌う。法界坊、てっきり、その恋しい人とは自分のことと思いこみ、有頂天になって、おくみが歌い終るなり踊り出す。 (楽譜省略)  長屋の者の知らせで長九郎がおくみを引き取りにくる。ここで法界坊が長九郎に木魚用の部厚い小さな座布団を出して「まあおすわり」だの、鉦の中へ香を入れ、湯を足して、「はい。お香茶」などと出すギャグがある。  やがて永楽屋から法界坊のもとへ、先日のお礼がしたいのでという招きがくる。すっかり色気づいた法界坊、さっそく大桶に湯を沸かして入浴する。※[#歌記号、unicode303d]お医者さまでも草津の湯でもアラどっこいしょー。はしゃぎ過ぎて桶がひっくり返る。  軒から紐で吊るした鏡で髭を剃ろうとする法界坊、鏡がくるくるまわるのでついてまわりながら髭を剃るギャグ。この辺のフィルムも現在欠落。  永楽屋にやってきた法界坊。長九郎の渡す礼金を見て「やい長九郎。てめえ胡麻化す気か」「いえそんなつもりは」長九郎がピンはねした金を懐中から出すと、そんなものは要らん。おくみちゃんを寄越せ。おくみちゃんとおれとは互いに約束しあった深あい仲などというので長九郎あきれる。惚気《のろけ》ながらも照れて金を弄び、ちゃりーんと手近の壺の中へ入れてしまった法界坊、取ろうとすると手が抜けず、長九郎とひと騒ぎ。ここで長九郎はおくみと要助のラヴシーンを法界坊に覗き見させ、いきり立つ法界坊を「ま、おれにまかせろ」と宥《なだ》め、ふたりで何やら悪だくみ。  鯉魚の一軸を手に入れんが為、女主人おらくはおくみと要助に方便だからと言い含めて源兵衛とおくみの仮祝言をさせる。その日、なぜか法界坊も豪華な袈裟に身を装いあらわれる。だが祝言の座敷におくみはなかなか姿を見せない。源兵衛苛立ち「おくみは何をしている。さあ祝言じゃ祝言じゃ。早うせんととしをとってしまうぞ」  おくみは自分の本心を書いた手紙を要助にあてて書き、ばあやに託《ことづ》ける。だが、ばあやに手紙を手渡された要助、ばあやの付け文かと思い、捨ててしまう。それを拾った法界坊、今度は自分の恋文を渡そうとして、庭にいるおくみに近づいて行く。ここで法界坊とおくみのデュエット。いい曲だが、これも原曲は不明である。まず一コーラスの前奏。 「(楽譜省略)」 「まあ。 (楽譜省略)」 「(楽譜省略) (楽譜省略)」 「(画像省略)」 「ええ。 (楽譜省略) (楽譜省略)」  ここまでが一コーラス。以下、このメロディのくり返しになる。「※[#歌記号、unicode303d]自分の恋人?」とおくみ。「ええ。※[#歌記号、unicode303d]そうですよ。からすの濡れ羽色、柘榴の口ですよ」「※[#歌記号、unicode303d]まあ恥かしい。あのことを」「※[#歌記号、unicode303d]何で忘れよう。あの言葉。わたしがきっと引き受ける。そのかわりうまくいったその時は」と、手を握る。 「※[#歌記号、unicode303d]何を、なさるの。いやらしい」 「※[#歌記号、unicode303d]そりゃあんまりな、お言葉よ」 「だってあたし※[#歌記号、unicode303d]知らないわ」 「とかなんとかしらばくれて、いやじゃありませんか。※[#歌記号、unicode303d]詳しいことはこの手紙。あとでゆっくり、読んで頂戴な。ぱっ」と、手紙を渡す。だがおくみはそれを捨てて立ち去り、この手紙を甚三が拾う。  この映画はなかばミュージカルでもあることがおわかりであろう。エノケンの歌はすばらしい。この曲は難曲である。それを、科白をはさみ、宏川光子の方はじっとしているがエノケンの方はほとんど踊るような仕草を入れながら歌うのだ。高い方のドの音(へ調の曲だからソの音)をぱっと出すあたりの音感には驚かされる。エノケンは本格的ミュージカルをやるのが夢だったという。エノケン存命中、小林信彦氏の世話でこの映画を見る集まりが催され、そのあと、エノケンが出てきて講演したそうである。その時エノケンはこの斎藤寅次郎監督を、音楽がわからない人であったと不満げに話したそうだ。エノケンは楽譜が読めた。さぞいらいらしたことであろう。タイミングのずれをエノケンが歌唱力で胡麻化しているところも二カ所ほどある。それにしてもエノケンの最高傑作のこの映画にしてエノケン自身が不満とは、まったくわからないものだ。  次がやはり庭先での恋文騒ぎの場である。法界坊が源兵衛におくみの恋文を証拠品として出して見せ、要助とおくみの仲を告げ口する。この手紙を甚三がこっそり法界坊の恋文とすり替える。源兵衛がそれを満座の中で読みあげる。最初のうち法界坊はその恋文のいやらしさを、源兵衛がひとくだり読むごとに「ねえ、聞きましたか。どうです。『雲に掛け橋霞に千鳥、及びないとて惚れたが因果に御座候』いやじゃありませんか」などとあげつらっていたが、次第に自分の手紙とわかりはじめ、やきもきする。源兵衛ついに最後の「おくみさままいる。焦がるる法界坊より」を大声で読んでしまう。こっそり消えようとする法界坊を甚三が呼びとめ、「おうっと、名僧知識どこへ行く」「ちょっとはばかりに」法界坊は甚三にとっちめられる。ここは科白の端ばしに到るまで舞台と同じ。  この映画を旭座で見て一年ほどあと、ぼくが中学二、三年のころだったろう。エノケン一座が梅田映画劇場で当り狂言「法界坊」を上演した。もちろん見に行ったが、この場では映画と同じく法界坊が甚三に投げとばされる。かたい床の上へ一回転してエノケンがどうんと倒れたので、まさか本当にやるとは思っていなかったぼくはびっくりした。すごいサービス精神だなあと思ったものだ。むろん「サービス精神」なんて言葉はまだなかったが。  法界坊はこの場から逃げ出す際に鯉魚の一軸を盗み出す。ここでは追われた法界坊が「たこ焼」の看板のうしろに隠れ、たこの顔になって首だけ出しているギャグがある。  長九郎がすりの女お銀(千川輝美)に頼んで要助を誘拐させ、おくみが悲嘆の涙に暮れるというくだりがその次にあるが、ここのフィルムも失われてしまった。  夜の川岸。歌舞伎「隅田川《すみだがわ》|続  俤《ごにちのおもかげ》」でいえば八幡裏手の場に相当するところ。おくみを駕籠に乗せ、長九郎がやってくる。法界坊の持ってくる軸物と、ここでおくみを取り替えようというわけだが、実は源兵衛が隠れていて、やってきた法界坊を刺し殺そうという算段である。法界坊がやってくる。源兵衛、短刀を抜いて法界坊に斬りつけるが法界坊はこれをかわし、短刀は材木置場の柱に突き刺さって抜けなくなり、揉みあいになる。長い土管へもぐりこんだ法界坊、尻はこちら側に出ていて源兵衛が押さえているのに、頭ははるか彼方の端から出ているというシュールなギャグがある。柱の短刀を抜いて法界坊を刺そうとした長九郎は誤って源兵衛を刺してしまう。 「し、しまった」と長九郎。「法界坊がどいたからいけないんだ」何言やがる、と怒る法界坊。 「早く。早く医者を」とうめく源兵衛。「早くしないと、としをとってしまう。いや。死んでしまう」そして死んでしまう。  悪人ふたりは軸物と、駕籠のおくみを取り替える。だが長九郎は、法界坊が逃げた駕籠屋を呼びに行っている間に駕籠へ源兵衛の死骸をのせ、おくみをつれて逃げてしまう。一方、法界坊が長九郎に渡した軸物もじつはにせもの。このあたり、世話物のムード濃厚で楽しい。  三囲稲荷《みめぐりいなり》の場。鳥居の前で法界坊が手下達と穴を掘っている。今度こそ軸物とおくみをとり替えようというので要助と甚三を呼び出し、落し穴に落そうという魂胆。手下達を帰し、法界坊は鳥居の蔭でひとり待ちうける。甚三と要助、やってくるが、甚三がなかなか落し穴に落ちてくれないので法界坊やきもきし、ついに出てきてここだここだと言うギャグ。法界坊と甚三、ここで揉みあいになるが、要助はぽかんと見ているだけ。この木偶《でく》の坊ぶりは小笠原章二郎、みごとである。  法界坊は自分が穴に落ちてしまい、甚三に軸物をとられてしまう。その甚三と要助が帰るところを、待ち伏せていた長九郎、不意を襲って甚三を刺す。甚三は軸物を持ったまま川へどぶーん。要助出てきて「長九郎。何をいたすのじゃ」だが要助も長九郎の手で川へどぶーん。おとなしく川へ突き落される要助のおかしさ。  雨が降りはじめる。穴から這い出てきた法界坊のところへ長九郎が来る。凄絶な殺しの場となる。法界坊は番傘で渡りあうがついに殺される。長九郎のかざした番傘をばりばりと破って形相凄まじく法界坊背後から「よくも、おれを、殺しゃあがったな。この恨み必ず晴すからそう思え」法界坊はふたたび穴に突き落されて絶命。  翌朝、川の傍の家より要助出てきて、家人に「危い命をお助けくださり」と礼を述べているところへ、軸物を持ってきた村人。「あんたの捜していなさるのは、これじゃないのかい」「おお。これだ」軸物をひろげる要助。だが絵からは鯉だけが消えている。「あっ。鯉が逃げた」川を覗きこむ要助。ここのところは歌舞伎を知らないとよくわからないだろう。この名画の鯉はいちど池に逃げた前歴があるのだ。  その夜、ヒュードロドロの鳴り物入りで穴の中より法界坊の霊魂、火の玉となって宙に浮かび、漂うように永楽屋に向かう。永楽屋の店先。小僧が火の玉を見てあっと叫び、逃げこむ。折しも奥座敷では長九郎とおくみの祝言。三三九度の杯をあげながら長九郎がふと見ると、おくみの顔が法界坊になり、にやりと笑う。驚くが気のせいと思いこむ態《てい》の長九郎。だがついに花嫁姿の法界坊がべろりと舌を出す。長九郎ぎゃっと叫び、宴席を蹴って逃げ出す。だがどこへ逃げようと、戸棚の中、長持の中、どこからでも法界坊はあらわれる。ついに庭の井戸端まで逃げてきた長九郎、井戸の中から聞こえる法界坊の責め言葉に、一同の前で悪事を自白する。「苦しみをなくしてあげるから、この井戸の中へお入り」という言葉に「ありがとう。ありがとう」と言って井戸へとびこむ長九郎。ふたたびヒュードロドロで井戸の傍に法界坊があらわれる。わーっと驚く一同。ここで幽霊の歌となるが、これも原曲は不明。 「 (楽譜省略)  長九郎こいつにな (楽譜省略) 」 「あなたのおかげで永楽屋もおくみも、長九郎の毒牙にかからずにすみました」と、おらく。 「ありがとうございます」と、おくみ。 「そんなやさしいことを言ってくださるな。また娑婆《しやば》に未練が残る。じゃあさようなら」 「これからどちらへ」と、要助が訊ねる。 「幽霊は西へ行くというが私は (楽譜省略)  おらくが「あなたが成仏なさるためにはどんなことでもいたします」というと法界坊は、「釣鐘をひとつ建立してくださらんか」と頼む。「※[#歌記号、unicode303d]その鐘つけばどんな悪人でも、後悔するようになるでしょう。せめてこの世にひとつだけ、いいこと残して行きたいよ」 「必ず建ててさしあげます」と要助が約束すると、法界坊は自分が要助、おくみの結婚式の仲人に立とうと言い出す。ここで歌うのがヴァーグナー「ローエングリン」の「結婚の歌」のメロディによる※[#歌記号、unicode303d]高砂やである。※[#歌記号、unicode303d]この浦舟に帆をあげて、などと歌いながら法界坊、蹴つまずいたりしながらも祠《ほこら》への階段をあがって行き、消える。※[#歌記号、unicode303d]月もろともに出潮《いでしお》の、浪の淡路の島影や。その声に向かって要助とおくみが「法界坊さんありがとう」「さようなら」と呼びかける。  ラスト・シーンは隆泉寺境内。桜の花が満開である。釣鐘が完成して今日は落成式。僧侶がごーんと鳴らすと「痛えっ」と叫んで鐘から法界坊が落ちてくる。一同驚くが、法界坊が「いけねえ」と、とびあがって消えたあと、手をあわせる。「エノケンの法界坊」全九巻の終り。  よく出来た映画なのも道理、脚本が和田五郎、小川正記、小国英雄の三人である。封切は昭和十三年六月二十一日、日劇、東横映画劇場などの東宝封切館。特に日劇では実演が「エノケンのサーカス」でオール・エノケン番組。どの館も驚異的大入りで、「猿飛左助」の失敗のために一時下火になりかけた人気をエノケンはまた盛り返した。なんといっても寅次郎エノケン初顔合せの魅力だったのだろう。そして事実この映画、エノケンの代表作になってしまった。当時の批評も概ね「低きにつく嫌いはあるが」としながらも「エノケン映画の秀作」としている。ぼくもそう思う。この映画、旭座で何度見たことであろう。戦後上映されたその時も満員で、場内は爆笑の渦であった。ぼくがギャグの豊富さで満足したエノケン映画は、これ一篇だけである。舞台の方は、そもそもがエノケン一座十八番の舞台劇でありながらもギャグが制約されて、映画には及ばなかったとぼくは見る。  今回はまるで紙上再録になってしまったが、楽譜まで書いたのは、一杯呑んだ時にこれらの歌をうたう人が身近に多いから、きっと他にも大勢おられるだろうと想像し、思い出して歌っていただくためだ。ではONCE MORE TIME! ※[#歌記号、unicode303d]娑婆にいた時悪事をかさね……。 [#改ページ]  「水なき海の戰ひ」  私立探偵の従兄による千日前尾行作戦の失敗──失敗するのがあたり前だったが、その頃がぼくのいちばん悪かった時期ではないかと思う。もはや映画を見るために学校を怠けるのではなく、学校がいやだから怠けるという段階に達していたのだ。といっても学校を怠けて行くところといえばやはり映画館しかない。ローラー・スケート場があったが、これにはすぐ飽きてしまった。映画も、そんなに毎週面白い映画ばかりしていたわけではない。そもそもフィルム不足だったからこそ昔の映画が再上映され、とんでもない珍しい映画にもめぐりあえたのだ。だから時にはまったく食指の動かぬ映画でも時間潰しに見なければならぬことがあった。予想外れに面白かったといえるようなものはほとんどなく、たいていはつまらない、そしてぼくにとってはむしろいやないやな映画であることが多かった。  ひとつ、思い出すさえいやな映画を、ぼくは千日前のアシベ小劇場で見ている。ここはモンティ・バンクスを見た時に例の男色のおっさんに追いまわされた映画館で、どうもいやな思い出のついてまわる映画館だ。たくさん映画を見た中でも、思いだすさえいやな映画というのは他にちょっと例がない。アシベ小劇場はこれを「リビア騎兵隊」というタイトルで上映していたが、昔のキネマ旬報を見ているうちにこの映画の記事が出てきた。昭和十三年の封切当時には「水なき海の戰ひ」というタイトルで上映されてポーランドとドイツの合作映画だったのである。どこがいやだったかというと、今までこの映画史を続けてお読み下さっているかたならすでにおわかりの筈だ。フランス映画でさえ暗いと感じ、嫌っていたぼくである。その暗さにおいては定評のある東欧の映画など、好きになれる筈はなかったのだ。その上ストーリーはいやが上にも暗く、画面は暗く、当然のことながら館内も暗く、ただもうひたすら暗いという、とんでもない映画であった。 「水なき海の戰ひ」、原題「SCHREI DER WUSTE」は独B・W・B映画で製作年度は不明。キネマ旬報では昭和十二年の五月、六月、八月に輸入した三木商事が大きく広告しているが結局一年以上おクラ入りをして翌十三年の八月二十五日、洋画が払底してきたためか日本館や池袋昭和館で封切られている。こんなつまらぬ映画をどうして三木商事が輸入したのかを考えるに、ちょうどイタリア映画の大作・ムッソリーニ賞受賞の「リビヤ白騎兵」というのが当っていたのでそれに便乗したのではなかっただろうか。三木商事はリチャード・タルマッジなどを輸入していたので活劇として売るつもりだったのかもしれないが、あまりのつまらなさにおクラにしたのだろうと思う。  勿論つまらない、つまらないと書いているのはぼくのひとりぎめ。その時の精神状態や環境も影響している。児玉数夫氏など、「やぶにらみ世界娯楽映画史」でこの映画のことを「サイレント映画を見ているような、のどかな楽しさがあった」と余裕を持って書いておられる。なお、「調べ魔」の児玉氏にもこの映画の製作年度は皆目わからないそうだ。 (画像省略)  原作はF・A・オッセンドウスキーの小説で、監督はM・ワッチンスキー、撮影はS・スタインヴュルツュル。チャイコフスキーの曲に基づいてH・ワールスが音楽を担当し、出演俳優で酋長《しゆうちよう》アブダラーを演じるオイゲン・ボードーが歌詞を書いている。 「荒涼たるモロッコの熱砂果つるところに聳ゆる一群の山塊がある。その一角に砦《とりで》を築いてアラビア土民の酋長アブダラー(オイゲン・ボードー)は蟠踞《ばんきよ》してゐた。アブダラーは獰猛《どうもう》な部下を率ゐて常に隊商を略奪し、帰順の意志は少しも見えないので、フランス駐屯軍も最後の手段に訴へて一挙全滅させて了はうと機を覗《うかが》つた。苦心の結果やうやくアブダラーの山塞への山道を発見したので、外人部隊のポーランド人の軍曹ミルチェック(アダム・ブロッチ)青年が土人に変装して単身山塞に乗込み、敵状を視察すべき任務を受けた。彼は見事に使命を半ばまで果した時、正体を看破されて、アブダラーに死刑を宣告され、土牢に投込まれて了ふ。ところがアブダラーの娘ヂェミラ(ノーラ・ナイ)は美しい白人の顔を忘れ得なかつた」  製作年度こそわからぬものの、どうやらトーキー初期の作品らしいことは、科白《せりふ》が少く、手法がサイレント映画的であることから想像できたのだが、同じサイレント的手法であってもドタバタ的手法ならいいのだが、いわゆる芸術的サイレントの手法を使っているのだ。したがって活劇などにも派手さがなく、リアルで地味だった。これがますます暗さを倍加した。そこへもってきて主演女優のノーラ・ナイ、土人の娘をやるだけあって、明るいアメリカ型美人女優を見馴れた眼にはどうにもやりきれぬ不美人で、おまけに色が黒いからまるでブラック・モンキー。いかに「土人の娘としてはすばらしい美人だ」という科白が出てきても、土人の娘は土人の娘、こんな代物にちょっかいを出す主人公の気が知れなかったものである。 「山塞に生れ育つた彼女は白人の世界、文明の社会に燃ゆる様な憧れを抱いてゐた。その憧れがミルチェックへの恋情となつたのである。ヂェミラはミルチェックを逃走させ、自らも彼と再会の日を期して山塞を出奔した。町から町へ、酒場から酒場へ、ヂェミラは歌と踊とで流れて行き、思ひ叶ふてミルチェックと逢ふことができた」 「薄ものを透して半裸のジェミラが、金を集めて歩くシーンはエロティック」であったと児玉氏は書いているが、どうせブラック・モンキーであって、当時のぼくにはなんとも感じられなかった。酒場といっても外人部隊が駐屯している町の酒場であり、暗いことに変りはない。 「けれども野性の儘《まま》の烈しい火の様な情熱は若いミルチェックにとつては寧ろ畏怖すべきものだつた。さうして彼が彼女を避けようとしてゐた時、彼の友人から紹介された英国娘ジェニー(マリー・ボークダ)とミルチェックが話してゐるのを見て、ヂェミラは嫉妬し、復讐を誓つた」  ほらみろ。ゲテものに手を出せば追いまわされるに決まっているのだ。ミルチェックはヂェミラと森へ行って彼女を抱くのだが、ああいうものをよく抱いたものである。抱いたあとでさぞ自己嫌悪に陥り吐き気がしたことであろうし、それに追いまわされるのはさぞ地獄の苦しみであったろうと同情できる。そういう変なところに同情できる映画だからこそますます暗いのだ。なお、ミルチェックの友人というのは配役序列《ビリング》四番目のウィトルド・コンチであろう。主人公と共に戦ったり、ミルチェックとジェニーのラヴ・シーンでは歌をうたってやったりする。役名はルートナン・タルノフスキーである。配役序列《ビリング》はオイゲン・ボードー、ノーラ・ナイ、アダム・ブロチッチ、ウィトルド・コンチ、そしてマリー・ボークダの順。  近代的なイギリス娘ジェニーが出てきてはじめて、ちょっとだけ明るくなる。まず見ていられる美人であるし、彼女と共にまた森へ行こうとするミルチェックが、橋の上で、アブダラーに武器を運んでいる土人商とぶつかったりするという、ちょっとした笑いもある。しかしこれはごく一部分。物語はたちまちラストの大悲劇に移る。 「折しも外人部隊はアブダラーの山塞討伐に出発した。ヂェミラは急ぎ帰つて、この事を報告した。アブダラーは逆襲の挙に出て、渦巻く熱砂の天地に激しい戦闘が続けられた」  この最後の大戦争のシーン、キネ旬批評欄では滋野辰彦氏が「土民軍と外人部隊との戦争で、倒れる兵士や馬の描写には日本人ではやりさうもない執拗なところがあつた」と書いている。執拗とはいってもそれは、何の芸もなく兵士がどた、どたと砂の上に、そして馬匹がどた、どたと砂の上に、およそこの世の続く限り永遠に倒れ続けるかと思うほどぶっ倒れ続けるだけの話である。活劇特有のあの血沸き肉躍る派手さは皆目ない。そしてミルチェックの友人が倒れ、ミルチェックが倒れ、やがてアブダラーが、部下や敵兵のるいるいたる屍体《したい》の中を、くわっと眼を見開いてよたよたと歩き続けた末にどた、と棒のように倒れる。ヂェミラが出てきて父の屍体の傍らに膝をおとす。やがて彼女は両手を高く天にさしのべ、絶望の表情をする。  ぼくが映画をここまで見た時、隣席にいた二、三人づれの同年輩の連中が、すでにもう一度か二度くり返して見ていたのであろう、「ほら。アーアーアやで」と、馬鹿にするような声で言った。その通り。ヂェミラはここで、世にも悲痛な「アー、アー、アー」という叫び声をあげるのである。横にいた連中も、あまりの暗さ、あまりのやりきれなさに、馬鹿にでもしなければたまらなかったのであろう。ただし、今回キネ旬であらすじを読むと、「アー、アー、アー」は傍らの連中が真似た如きターザンもどきの「アーアーア」ではなく、実は「アラー」と言っていたのだということが判明。しかし当時はどうしても「アー、アー、アー」としか聞こえなかったのだ。天に叫ぶヂェミラの姿がラスト・シーンであって、この叫び声は館を出たあと、いつまでも耳に残って困った。ああいやだいやだ。他に気分を変えられそうな映画はやっていないし、これからまたあの千里山の家に帰って父親に叱られなきゃならんのかと、もはや夕刻、暗い暗い思いでぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗り、帰途についたのだった。  キネ旬批評欄、滋野氏の評も悪い。「此の映画の製作に関して詳細を知らぬが、独逸とポーランドの共同製作になる映画で、日本に来た最初のポーランド語トーキーである。モロッコのフランス外人部隊の兵士と、土人の娘との恋物語だが、劇作術の上から見ればトーキーの極く初歩であつて殆ど問題にはならない。かつて我国で上映された独逸語版のポーランド映画『あらし』などよりもずつと幼稚な映画である。殊に会話が極端に少く、サイレントのタイトル代用にしか役立つてゐない。この映画のすぐれた所と言へば真物のモロッコであるかどうかは知らぬが、小さな丘が波の様に重なりあつた草原や、石ころの多い砂漠の実景であらう。尤も作者はさうした自然景の美しさよりも、幼稚な芝居に熱心になつてゐるのだが」  興行価値欄は「ポーランド映画である事に吸引力があるとは思へず、活劇映画として見ても凡凡たる作」となっている。そしてまさにその通りの結果だったようだ。昭和十三年、この映画が封切られた日本館と池袋昭和館は、本来二番館、三番館であった。両方とも、すでに八月に封切られていたプドフキン監督「ヂンギスカンの後裔」(「アジアの嵐」のトーキー版)と併映だったが、ひどい成績だったらしい。景況調査欄にはこう書かれている。「封切館では使用に堪へぬからと言ふストック品の封切は実際この館としては有難迷惑で、今週などは会社の取引上の犠牲になつたやうなものだ」  前後してこのころの映画館にかかっていた問題作のトップは、やはり「綴方教室」であろう。昭和十三年度東宝のベスト・ワンともいうべき強力なもので、どの館でも爆発的人気だったという。いうまでもなく天才少女豊田正子原作、山本嘉次郎監督、高峰秀子主演の名作である。東宝はこのころ、ほとんど独走で人気映画を作っている。「水戸黄門漫遊記」は「東海道の巻」「日本晴れの巻」があい次いで封切られた。斎藤寅次郎監督の喜劇で横山エンタツ、花菱アチャコ、柳家金語楼、徳川夢声、高勢實乗、ワカナ・一郎という豪華キャストのドタバタで、上映館すべて大変な大入りだったらしいが、実はぼくはこれを見ていないのだ。戦後上映されたことがあったらしく、小松左京氏、桂米朝師匠はこれを見ている。いつもおふたりがこの映画のことを話しはじめるたびに、ぼくはぐっと屈辱の思いに耐えるのである。  アメリカ映画の輸入が少くなったかわりに、同盟国であるドイツ、イタリアの映画が多く封切られはじめるのもこのころからである。その最大の作品でこのころ封切られたものは「シピオネ」であろうか。カルミネ・ガローネ監督、イザ・ミランダ他の主演で、ザマの大激戦を描いたスペクタクル作品。ムッソリーニ賞もとっている。広告が派手だったせいか八月末から九月一週にかけての封切りは大あたり。ただしこの八月末、二十二年ぶりの大型台風が東京を通過、「凄まじい烈風の咆哮《ほうこう》、屋根を剥《は》ぎ看板を飛ばし、街路樹をなぎ倒し、電燈線を断ちあらゆる暴威をふるつて六百万市民を暗黒の中に叩き込んだ。市内の被害はまさに大震災以来でこれが興行界に及ぼした惨禍も頗《すこぶ》る大きく、わけても江東及び京浜地方一帯は浸水或は停電で九月一日は一斉に休館続出といふ有様」だったらしい。  エンタツ・アチャコの「水戸黄門」は見なかったものの、製作年度がちょうど同じの、日活京都の「水戸黄門」をぼくは見ている。こちらの方は片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、阪東妻三郎という豪華キャストの堂堂たる本格派水戸黄門であった。次回はこれをご紹介しよう。 [#改ページ]  「水戸黄門廻國記」  今年の一月、元日以来毎日のようにたくさん来ていた年賀はがきの数が一日に数枚、ちらほらとしか来なくなりはじめた頃、大型の封筒に入った原稿用紙による部厚い書簡が届いた。千葉県野田市の湯浅彦平という初めての人からの手紙で、ペン字ながらも普段来るファン連中の幼い字とは違って達筆であり、文章もなかなかのものであった。その一部をご紹介する。 「本日、はからずも古書店で何気なく購い求めた『不良少年の映画史』を拝読させて頂きました。大変に楽しく、このように素晴らしい読物が『オール讀物』に連載されていたことも知らず、ひたすら仕事仕事のみの昨今に思い到り、かつまた、御著の感銘ひとしおの余り、こうした読書の手紙なるものを記したことのない私でありますが、思いきって筆をとらせて頂いた次第です。  と、まァ、ここまでは一応礼儀正しく綴って参りましたが、いやもう、こんな書き方では、私めの感激興奮を先生にお伝えすることができません。大変に失礼でありますが、以後、ざっくばらんに旧知の如く綴らせて頂きますので、御無礼の段、平にお許し下さい。  何しろ『不良少年の映画史』を一読するやあッと愕《おどろ》き、わッ何と! と喚《わめ》き、参ったなあもう! と頭を叩き、まさに狂喜乱舞を絵に描いたが如きていたらくでありました。何となれば、この私めも、先生の著にある通りをそのままに生きてきた不良青年《ヽヽヽヽ》であり、他のどんな読者よりも、最大の共通点を先生とともに有する過去を持っているのです。  まず、千里第二小学校に在校しました。私昭和四年生れですから、先生の五年先輩ということになります。  そして、吹田東宝、吹田館、旭館はもちろんのこと、大阪座、旭座、錦座の常連であり、また、天五の古道具屋街に父の蔵書や衣類を売りさばいて、映画映画にとち狂っていたのも全く同じ!  当時、東宝系であった吹田東宝では、もっぱらエノケン、ロッパ、金語楼、エンタツ・アチャコなどの喜劇を、また、日活・新興系であった吹田館では、阪妻、千恵蔵、寛寿郎、そして原健作を! さらに松竹・大都系であった錦座では(おお何と、実はこの館が一番想い出深い)松竹よりもむしろ大都・極東や全勝キネマの活動写真にこよなく惹かれておりまして、雲井竜之介や綾小路絃三郎、松山宗三郎などに親しんでおったものです」  手紙はこの調子でまだまだ続く。面白いので全文ご紹介したいが、他人の文章の紹介ばかりであまり枚数をかせいではいけない。残念ながら割愛する。  湯浅氏の文中にもある吹田館は、ぼくが氏よりもだいぶ遅れて通いはじめた頃は大映系の二番館になっていたが、戦争末期は作品の不足から昔の日活や新興系の映画も再上映されていた。「水戸黄門廻國記」を見たのもこの吹田館である。  日活京都作品「水戸黄門廻國記」は昭和十二年の十月十四日に封切られ、一年おいて翌十三年の十月十三日には「續水戸黄門廻國記」が封切られているが、ぼくがまだ千里第二小学校在学中の昭和二十年ごろに見た映画はどうやら「續水戸黄門廻國記」の方であったらしい。続篇の方にしか出演していない嵐寛寿郎を見ているからである。だが、もしかすると正統二篇を編集しなおして一篇にしたものを見たのだろうか。看板には「續」という字は書かれていなかったし、ぼんやりとながら「水戸黄門大会」と書かれていたような記憶もある。このころやたら「蛇姫様大会」だの「母の曲大会」だの「新妻鏡大会」だのと、前後篇ものを一篇の長さに編集しなおしたものを「大会」と名づけて上映していたからだ。キネマ旬報で正続両方のあらすじを読んでみたがそれでもはっきりしたことはわからない。ただ、続篇が五つのエピソードで構成されているのに反して正篇の方は一貫した話になっているので、再編集は困難であったかもしれない。  そこでまず順序として、見たのかどうかは不明ながら「水戸黄門廻國記」の方から書いていく。脚本が瀧川紅葉、監督が池田富保、撮影が谷本精史で、ここまでのスタッフは続篇と同じ。音楽は高橋半である。この映画は、正続どちらも日活の秋季超特作でオールスター・キャストだから、出演者の数がおそろしく多い。まず主演の水戸黄門が山本嘉一。この老優の黄門は乃木将軍と共に日本一の適役であったという。そして格さんが片岡千恵蔵、助さんが阪東妻三郎である。以下、配役序列《ビリング》順に演技者名だけを列記する。昭和十二年当時の日活にどんな役者がいたかを見ていただきたい。ここに書く人びとのほとんどが当時もしくはそれ以前の、主演者クラスの俳優だったのである。 (画像省略)  月形龍之介、尾上菊太郎、沢村国太郎、沢田清、河部五郎、高勢實乗、市川百々之助、市川正二郎、湯浅さんご贔屓《ひいき》の原健作、瀬川路三郎、実川延一郎、藤川三之祐、香川良介、尾上華丈、林誠之助、尾上桃華、久米譲、香川清、水原洋一、南条龍之介、志村喬、大崎史朗、ここまでが男優。  女優は筆頭が轟夕起子、以下深水藤子、原駒子、大倉千代子、中野かほる、桜木梅子、衣笠淳子、水の江澄子、清水照子、比良多恵子。この顔ぶれを見て豪華さに驚く人はもう相当のご年輩のかたであろう。  話そのものは例によって例の如く黄門さまが大悪人小悪人を懲《こら》しめる話だから書くまでもないが、冒頭の部分だけをご紹介しておこう。「松平対馬守(尾上菊太郎)の行列が箱根にさしかゝつた時、家老島田右膳(香川良介)が美しい富士の姿を殿にすゝめる。そこで対馬守が行列を止め、駕籠《かご》から出ると、とたんに見る/\富士は雲をかむつて頭をかくしてしまふ。対馬守はカン/\になつて『あの雲を取り除けツ』誰が何と諫言《かんげん》してもきかない。旅人達は立ち往生、二ときも三ときもの土下座で閉口するがどうにもならん」  土下座している群衆の中に黄門さまの一行もいる。黄門さまがやれやれといいながら頭をあげて伸びをし、自分の肩をとんとん叩いて「助さんや。格さんや」と両隣りに呼びかける。助さん格さんも顔をあげる。主演者三人がここで初めて顔を見せるわけだが、この部分、見た記憶があるのだ。してみるとやっぱり「大会」だったのかなあ、とも思う。再上映といってもニュー・プリントではないからフィルムはブツ切れのひどい状態。もしかすると残っているフィルムのありったけをつなぎあわせてやっと一篇のながさにしたというだけの代物であったのかもしれない。  このくだり、ご存じの通りの運びとなる。 「その時土下座の中から二人の若い男を連れた爺さんが、のこ/\と対馬守の傍へ来て『これ対馬さん』と物柔らかにさとす。対馬の怒り頂点に達すると件《くだん》の爺さんにこ/\笑つて『わしは水戸黄門ぢやが』と、忽ち対馬青くなる」  ぼくが阪妻、千恵蔵、寛寿郎など時代劇三大スタアのいちばん若い時の姿を見た映画がこれである。三人とも若く、寛寿郎のみ見わけがついたが、阪妻と千恵蔵は同じような扮装《ふんそう》なのでどちらがどちらだかわからなかった。  昭和十二年に「正篇」が封切られた時は、いうまでもなく各館(浅草富士館、帝都座、神田・麻布・渋谷の各日活館)大入り満員。しかもこのころとしては珍しく一本立て興行であったにもかかわらずである。たとえば富士館では、景況調査欄によると次の通りである。「映写時間二時間とはかゝらない水戸黄門の一本立で、六区では筆頭の当りを示した。即、初日三千円・日曜六千円と言ふ厖大《ぼうだい》なる数字で他社映画を圧倒したのである。二週目も上乗。スタアの人気が弱くなつたとは言へ、阪妻、千恵蔵と組めばまだ/\しつかりしたものである。これで拾ひ物をしたのは山本嘉一老で、今後も主演映画がとれやうと言ふものである。二十五年も勤続したのだから、この位のことはあつてもいゝ」。余計なことまで書いている。  この「正篇」の批評は水町青磁氏が書いているが、これがテレビで「水戸黄門」を放送し続けている現在にもそのまま通じる好エッセイになっているので、少し長くなるが紹介しよう。 「今まで何回となく映画になつた水戸黄門の又もや昭和十二年の秋の登場だ。かかる作品が何回となく発するといふことは、それが映画の文化的な役割の上からは何等か意味があるからではなく、単に娯楽として、例へば睡くなつた時には蒲団にもぐりこむのが人間の習性であるのと同じ位の、享楽本能を僅かに満足させるだけで事足りる為に作られるのである。(略)阪妻、千恵蔵始め現日活の最高スタッフを動員して見たところで、結局水戸黄門はそれ以上の役割を果たすことは出来ないのである。この国では『忠臣蔵』が何回となく上演上映されるが、それは少くとも英国で『オセロ』が喜ばれる位の意味はあるのだが、黄門の場合はそれ程の意味もない。が黄門物がこんなにも今日尚その命脈を保つてゐるといふことには何か確固たる素因がなければならぬ。それは封建制度に対する自慰的な安逸さを感ぜしめるものを持つてゐるからである。人間は封建的なものを憎むよりも、先づ封建的な中での権力者を夢みるものである。だから黄門の封建的権力と、其の、裏返しである封建制度下の民衆の憎悪とを旨くチャンポンにして見せてくれる所に、この黄門の微妙な魅力が潜んでゐるのである。今日の時代では殊に一寸、静かに考へれば、この微妙な心理は誰にも解るであらう」  この「正篇」は「続篇」よりもよく出来ていたらしく、「続篇」が同じ水町青磁氏によって貶されているのに反し、こちらはこのころの批評としてはずいぶん褒《ほ》められている。なお、脚本の瀧川紅葉というのは監督の池田富保自身である。 「が、池田富保老はそこまで考へてこの『廻國記』を作つたとは思へない。併し監督としての習練は、栗山大膳を作るよりも堂に入つてゐた。(略)配するに助さん格さんが阪妻、千恵蔵といふ強力メムバー(凡ゆる意味で)であるから、監督としても相当の努力を敢てなさしめられた傾向がある。投げたり、独りよがりでは作れぬつらさもあつた様である。脚本もよくソツなく出来てゐる。何回も作つてゐるうちに自然に推敲《すいこう》されたものゝ様である。菊太郎の殿様が富士山にかかつた雲がとれるまで動かぬといふ所など殊に一抹の新鮮ささへあつた。後半お家騒動めいて来ると一寸だれるが『めでためでたの若松さま』の唄でラストへの移行もトーキーの効果を心得てゐたと言へる」  さて、「正篇」の大当りで気をよくした日活京都、一年後には「続篇」を作るわけだが、今度の出演者は前回よりも豪華でなければいけないというので、まず嵐寛寿郎を引っぱり出してきていちばん重要な悪役に据えた。配役序列《ビリング》は千恵蔵、寛寿郎、阪妻、山本嘉一の順になっているが、これは千恵蔵、寛寿郎がプロダクションの主宰者だったからであろう。他に「続篇」のみに出演する俳優は次の通りである。江川宇礼雄、伊沢一郎、市川小文治、田村邦男、団徳磨、磯川勝彦、阪東国太郎、島田照夫、楠栄三郎、子役の宗春太郎、旗桃太郎、女優は市川春代、酒井米子、小松みどり、花柳小菊、黒田記代といったところ。これに「正篇」の出演者のほとんどが加わるのだから大変な豪華キャスト。「正篇」に出て「続篇」に出ないのは高勢實乗ぐらいのものだ。いちばん困ったのは監督兼業の脚本家瀧川紅葉であったろう。あまりのスタアの多さに話の作りようがなく、しかたがないので五つのエピソードにわけた。キネ旬あらすじ紹介欄にはエピソードが三つしか書かれていない。いずれも黄門ばなしの有名なエピソードばかりだが、ぼくがかすかに記憶しているのは例の米俵に腰かけるエピソードである。ところがこの話は紹介欄には書かれていないので、はたして「続篇」中のエピソードであったのか、「正篇」中にあった話なのかがわからないのである。それでも、黄門さまがうっかり米俵に腰をおろして休憩したため、茶店だか農家だかの婆さんに「勿体《もつたい》ない。この罰《ばち》あたりめ」と薪《まき》ざっぽうでぶん殴られ、助さん格さんがうろたえているそのシーンを、ぼくはたしかに記憶しているのである。  嵐寛寿郎が登場するのは「続篇」中のいちばん最後のエピソードで、これをぼくが見たフィルムだとほんの十数分ぐらいのものであった。なにぶん記憶にあるシーンはほとんどこの部分なので、このエピソードだけを紹介する。「一行は八幡の宿へやつて来た。茶店は四方山《よもやま》の話をしてゐると、村役人が色をかへてかけこんで来た。と言ふのは八幡様の裏の藪《やぶ》に天狗が住んでゐて、昨夜暴れたと言ふ。二人は村人の止めるのも聞かずその藪の中へ入つて行つた」  ここで「二人」と書いてあるのは、黄門さま、及び千恵蔵の格さんのふたりのことである。阪妻の助さんが何かの用事でいったん黄門や格さんと別れ、別行動をとっていたからだ。 「と四方から現れ出たは天狗の面を被つた異形の武士、これぞ関ケ原の戦ひに破れた石田三成の末孫|狭霧《さぎり》姫、小坂部主馬の面々、よき敵ござんなれと光圀《みつくに》公に打つてかゝる」  狭霧姫が花柳小菊、小坂部主馬が寛寿郎であるが、花柳小菊の方はさっぱり記憶にない。また、当然あった筈の、格さんが天狗面の武士たちと戦う場面も記憶から脱落している。フィルムが脱落していたのかもしれない。とにかく格さんの方は敵の計略か何かで捕まってしまったのであろう。ぼくの記憶にあるのは、残党たちの本拠である藪の中の荒れ寺の庭さきへ、黄門が縄をうたれて引き据えられている場面からである。と、荒れ寺の中よりつかつかとあらわれた山伏姿の男、縁さきで天狗の面をぱっと取り黄門を睨みつける。寛寿郎である。あれえッ、と小学生のぼくは思ったものだ。アラカンのような大スタアがなんでチョイ出の悪役なんかやるのだろう。それともこれは昔の映画で、このころアラカンはまだ悪役をやっていたのだろうか。なにしろアラカンといえば鞍馬天狗、むっつり右門、河童大将である。いかにオールスター・キャストとはいえ、正義の味方であるべき大スタアが一方で悪役もやるなどという常識はそのころのぼくにはない。スタアとしての地位は阪妻や千恵蔵よりずっと下なのかなあ、などと、子供の頭でずいぶん考えたものだ。  とどのつまり黄門は火あぶりの刑と決まる。木にくくりつけられ、まわりに枯草がつみあげられ、火がつけられる。なぜか落ちつきはらっておとなしく木にくくられている黄門。そこへ助さんが駈けつける。山門を叩き、「ご隠居さまァ」と、切羽《せつぱ》詰った例のバンツマ顔で二、三度叫ぶが返答はない。あたりを見まわすと傍らに三尺ほどの高さの墓石めいた直方体の石柱。これを持ちあげる。この石柱、張りぼてではなくどうやら本ものの石だったらしく、阪妻はこれをほんとに重そうに持ちあげる。本来ならば張りぼての石をえいやっと肩より高くさしあげて山門にぶつけるところだが、阪妻がリアリズムを主張して張りぼてを嫌ったのかもしれない。腰のあたりまで持ちあげてよたよたと山門に体あたり。山門は開き、助さんはよたよたと中に入り、重そうに石を捨てる。次は火のついた枯草を蹴ちらしながら助さんが焚火《たきび》の中へとびこんでいくシーン。あっと驚き騒ぐ残党たち。火の彼方にはあいかわらず落ちつきはらった黄門。ぼくはこのシーンを三、四回みたが、いずれも必ず拍手が湧いた。  次のシーンは寛寿郎が火のついた荒れ寺の中で役人たちに囲まれ、槍をふるっているところ。ぼくの記憶はそこまでである。そのあと「湊川へ来た光圀公、大忠臣の墓があまりにさびれてゐるを深く歎かれて、嗚呼《ああ》忠臣楠氏之墓と言ふ碑をお立てになる」という、エピソードともいえぬ話がついているが、碑の大写しのぼんやりした記憶しかない。 「続篇」は「正篇」と同じ館でそれぞれ封切られたが、一年前のような入りにはならなかったという。これは日活顔見世興行への興味がすでに春の「忠臣蔵」で満たされていたこと、「路傍の石」の成功などで観客の嗜好が変ってきていたことなどに原因があると「景況調査」欄が分析している。水町氏による批評もきびしい。「注意すべきは、此の徹底的な娯楽映画の目的たる『大いに娯しく面白く、而も会社側は儲かる』だらう処の作品が、今日の観客に対して、果して所期の目的を達成し得てゐたかどうかである。我々は元より娯楽価値を支持する側でもあつて同じ『水戸黄門』でもエンタツ・アチャコの其れよりはまだ良心的であると考へたい此の作品が、後者より娯楽価値が低いとしたら、これは大いに一考を要すべき間題であると思ふ。即ち斯様に日活の豪華なスタッフを以てしても、漫才や落語家たちの作品の方がより大衆性や娯楽価値があつたとしたら、其れは最早、営業会社の当事者たちの『娯楽価値』に対する再認識を要求さるべきである」 [#改ページ]  「ロイドのエヂプト博士」 「ロイドのエヂプト博士」を、ぼくは四歳の時、親につれられて見に行っている。なにしろ四歳だから「隊長ブーリバ」と同じ程度のぼんやりした記憶しかない。この映画が関西で封切られたのは昭和十三年十二月二十九日北野劇場に於いてであったがこれはロードショウ。次いで一月十一日梅田映画劇場。つまりお正月映画であった。当時ぼくの家は南田辺にあったし父の勤務先は天王寺動物園。わざわざ映画を見に梅田まで行く筈がない。したがって見たのはこれより少しあと、二番館か三番館に於いてであったろうと思う。それもおそらくは動物園の入口のすぐ前にあるラジウム温泉の建物の、二階にあった映画館だ。  このラジウム温泉というのは今でいうならヘルス・センターのようなものであった。道路ぎわの足もとには地下の明かり取りのためのアーチ型をした窓があり、ここから覗くと建物の地下には馬鹿でかい大プールがあった。なぜかヨットのような帆のついたボートまで浮かんでいた。人声が浴場のようにわあんと反響していたものだ。一度入りたかったがもちろんその頃はまだ泳げない。のち、南田辺国民学校で同級だった友達の田中という子に聞いた話だと、その子はここへ入ったことがあるそうだが背が立たず、泳げなかったために溺れかけたそうである。したがってぼくはただ一度、一階の浴場へ入っただけであった。大きな建物の中には岩風呂だの砂風呂だの電気風呂だの、小さな浴場がいくつもあったように憶えている。そのようなラジウム温泉の中にある映画館なのだから、主に子供向けの喜劇や漫画映画ばかりを上映していたのではなかっただろうか。つまり毎回ニコニコ大会ではなかっただろうか。ぼくはここで、他に一巻物の喜劇や漫画映画を見た記憶もあるのだ。例の天然パーマのお兄ちゃん、青空書房の坂本健一氏によれば、ここは「ラジウム温泉劇場」といって、少くとも昭和八、九年頃までは芝居をやっていたそうだ。映画が終ると観客は建物の外壁についている非常用の鉄の階段からぞろぞろ降りてくる。道路からこれらの人たちを見て、あ、いいなあ、この人たち今、漫画映画を見て来たんだなあと、しきりに羨んだことも何度かある。  このラジウム温泉のその後の運命について、ぼくは「記憶の断片」という雑文の中で次のように書いている。「ここは戦争中空襲で焼けたが、建物の外壁だけはまっ黒になっていつまでも残っていた。戦後、中学生になってからここへ行ってみたが、やはり廃墟のままだった。以前大プールを覗きこんだ道路ぎわのあの窓から、もう一度中を覗きこむと、地下一面に大きな穴があき、まっ黒の水が溜っていて、板ぎれなどが浮いていた。なんともいえぬ凄い情景だった。あの穴は大プールの穴だったのだろうか。それとも爆撃されたためにできた穴だったのか」 (画像省略)  パラマウント映画「ロイドのエヂプト博士」は原題が「PROFESSOR BEWARE」で昭和十三年の製作。パラマウントは配給しただけであり、作ったのは出来たばかりのハロルド・ロイド・プロダクションで、これが第一作。ストーリイ作りにたいへん手数をかけている。まずオリジナル・ストーリイがクランプトン・ハリスとフランシス・M・コックレルとマリアン・コックレル。さらにこれをジャック・カニンガムとクライド・ブラックマンがアダプテーションし、「化石の森」の脚本を書いたばかりで、のち監督になり「折れた矢」「避暑地の出来事」「恋愛専科」「スペンサーの山」などを撮ることになるデルマー・ディヴィスが脚色。監督はエリオット・ニュージェントである。  なにしろほとんど記憶にないのだから、キネ旬のあらすじ欄をここで紹介したところで意味がない。だがうまい具合に村上忠久氏が「試写評」欄でストーリイをまとめながら批評している。これを引用させていただこう。 「筋はロイドらしく甚だ簡単な物である。博物館に勤めるラムバート博士が埃及《エヂプト》で発掘せられた王女アニビとネフェリスの恋物語を記した九枚の石碑の文字を解読した所、それと同じ様な事が博士自身と偶然の事で知り逢つたジェーンと言ふ娘との間に起る事から巻き起される色々の事件が筋の中心を為して居る」  いうまでもなくディーン・ラムバート教授がハロルド・ロイド、王女アニビに似た娘ジェーンがフィリス・ウェルチである。 「之は大体三つの部分に別れてその笑の山場を持つてゐる。第一は埃及王朝の恋の悲劇を示したプロローグから、ラムバートとジェーンが沙漠の中で一夜を明してから一度は別れる迄である。此処では笑ひはまだ強烈の度合さを示さない。寧《むし》ろユーマアと言つた一種軟かい物に包まれてゐる。ジェーンとの最初の邂逅《かいこう》や、沙漠の一夜の微苦笑的な恋愛の雰囲気がそれを示してゐる。第二はラムバートがジャッヂ・マーシャルとジェリーの二人のホーボーと旅を続ける部分で、此処ではレイモンド・ウォルバーンとライオネル・スタンダーとによるトリオが巧みな喜劇を形成して全篇を通じて最も楽しみ、明るく笑へる部分であつた。中でもトンネルのギャグは優れてゐる。ロイド喜劇の特性の一つである主人公の苦しめられることによる笑ひが、典型的な構成の内に示されてゐた」  ぼくが記憶しているのはまさにこのトンネルのくだりなのである。マーシャル判事と自称する男(レイモンド・ウォルバーン)、それにジェリイ(ライオネル・スタンダー)、この二人の浮浪者と友達になったラムバート博士が東部行きの列車に乗る。無賃乗車なので座っているところは貨車の屋根の上だ。村上氏の文中に出てきたホーボーというのは浮浪者のことである。と、列車がトンネルに入りはじめる。ひどく低いトンネルで、そのまま貨車の上にいると頭をぶつけてしまう。三人は驚いて立ちあがり、列車の後尾の方へと屋根の上を逃げる。追いかけてくるトンネル。ラムバートが立ちどまる。なんと、さっき座っていたところにトランクを忘れてきたのだ。振り返ると、今しもトンネルの中に入って行くトランク。彼はあわてて引き返し、頭を下げてトンネルの中に入っていく。やがてトランクを持ち、走る列車にさからってトンネルから出てくるラムバート。つまり列車より早く走ったことになる。  列車の最後尾まで逃げてきた三人。うしろからはトンネルが迫ってくる。それ以上逃げられず、しかたなく頭上を過ぎようとした架線用支柱の梁《はり》にとびつく。列車は走り去り、宙ぶらりんの三人。腕が抜けそうになり、ラムバートは隣りにぶら下がっている男のからだを伝ってその足にぶら下がり、地上へ落ちる。レールの上に落ちたラムバートが握りこぶしをしきりに口の中へ入れているので、幼いぼくは隣席の父に「あれ、何してるの」と訊ねたものだ。父は「歯が折れていないか調べてるんだ」と答えてくれた。そしてぼくの記憶はそこまでなのである。 「ロイドのエヂプト博士」最後のくだりは、だいたい次のようなものであったらしい。 「第三は之亦《これまた》ロイド喜劇の本領たる突進を示した物で、ジェーンとの再度の巡り逢ひから二人の結婚式、ラストの船上の大活劇の部分である。就中《なかんずく》、奮然として起つたロイドが相手を怒らして多くの人に追ひかけられ乍ら、之等の人々と共に目指すジェーンとその父の乗るヨットに突進しようとする所は、何時もの極りきつた手乍ら矢張そのスピーディな力感と共に面白い。だが、此の部分では稍々《やや》その表現の冗長さが効果をそいでゐる感が多少あつた」  村上氏がいちばん褒めているトンネルのくだりを唯一記憶しているところなど、まだ四歳の折の、ギャグに対するぼくの鑑識眼を示していてまことに誇らしい。この村上氏の評は「ロイドがベストを尽した作品」であるとして褒めているが、一方批評欄ではこれと対照的に清水千代太氏が疑問を呈している。 「前作『ロイドの牛乳屋』が如何に換骨奪胎《かんこつだつたい》されてゐるにせよ、舞台の喜劇を素材としてゐるのに引きかへ、これは唯だハロルド・ロイド喜劇の伝統だけを墨守してゐる点に、ストーリーとしての弱味がある。この為めに部分的に笑はせられるギャグはあるが、十巻の長さにわたつて観あきさせないだけの力は失はれてゐる。(略)三巻物を三つつなげたと言はれても仕方のない様な構成の弱さは確かにあると思ふ。などといふ点を度外視して観ても、アクションにサスペンスが薄く、笑ひが微温的であることは認めなければならない」  四歳のぼくにロイドは強烈な印象をあたえた。見て数日はロイドさん、ロイドさんの毎日であったろうと想像できる。ちょうど天王寺動物園にロイドという雄のチンパンジーがいて、リタという雌ともども父は担当技師であったところからよく話題にした。だがロイドという名前からぼくが想像するのは常にハロルド・ロイドであった。チンパンジーの方のロイドは特に動作が面白いからそう命名したといったものではなく、単に眼のまわり皮膚が黝《くろ》くてロイド眼鏡をかけているように見えたのでそう名づけたのだそうだ。それでもやはり語源はハロルド・ロイドなのである。映画俳優の名前が常用語となって現在まで続いている例の双璧《そうへき》はロイド眼鏡とコールマン髭であろうか。そう言やモンロー・ウォークというのもあるなあ。  ロイド後期の代表作は通常「牛乳屋」とされていて、これはのちにダニー・ケイも作っているが、ぼくが見たのはこのダニー・ケイの方だけである。ただし村上氏によれば「ロイドの牛乳屋」よりも「エヂプト博士」の方がギャグの点では優れていたそうだ。どちらをよしとするかで当時の評論家の指向が判断できたのではなかろうか。千代太氏はやはりストーリイや全体の完成度の方を重視しておられるようである。 「エヂプト博士」の東京での封切は十二月二十六日東京宝塚劇場、次いで一月十一日日比谷映画劇場に於いてであったが、これはどちらもロードショウとして一本立て一円均一だったため入りが悪かった。ところが一月十八日に「ロッパの大久保彦左衛門」及び実演の三本立てで日劇が六十銭均一の公開をするやたちまち大入り満員。「かうまで安く豹変したのでは前週日比谷へ行つた客は馬鹿にされたやうなものだ。東西爆笑王競演が人気を沸騰して、第三週を圧倒すると言ふ逆な現象を見せた」と景況調査欄は書いている。 「第三週」とは正月第三週のことだ。 「エヂプト博士」を最後の代表作とし、ロイドはスクリーンから姿を消す。戦後、ロイドは一度だけ来日した。引退して悠々自適の毎日を油絵など描いて過しているという時期だった。日本ではテレビにも出たが若いタレントたちは誰も彼を知らなかった。死んだのは昭和四十六年三月八日である。  ロイドの油絵では面白い話がある。絵具のチューブからパレットへいちいち絞り出すのが面倒だというので、なんとパレットに小さな穴をたくさんあけ、そこへ裏側からチューブの先端をさし込んでいたという。アイディア・マンのロイドらしい話だと思う。  アメリカの喜劇王はロイド、キートン、マルクス兄弟。日本の喜劇王はエノケン、ロッパ、エンタツ・アチャコ。ぼくのこの評価は今でも変らない。ロイドは最近テレビで短篇を見たり八ミリ・フィルムを買ったりしているが、その陽気さと知性、そしてスマートなギャグと底抜けの楽天性はロイドのみのものであろう。風貌や知性の点でウディ・アレンに似ていないこともないが、ロイドはあんなに屈折していない。  さて、この回でどうやらこの映画史は昭和十四年に突入したようである。ここでちょっと昭和十三年度のキネ旬ベスト・テンを見てみよう。まず外国映画は一位が「舞踏会の手帖」、二位が「オーケストラの少女」、三位が「ジェニイの家」、四位が「モダン・タイムス」である。チャップリン好きの日本人のことだ。今なら「モダン・タイムス」が一位を「舞踏会の手帖」と争うところだろう。ぼくもチャップリンの映画の中ではギャグの豊富さの点で「モダン・タイムス」が最も好きだから文句はない。五位が「スタア誕生」だがこれはもちろんジュディ・ガーランドのものではなくジャネット・ゲイナー主演のもの。六位は「赤ちゃん」、七位は最近テレビでも放映した「鎧なき騎士」、八位「新婚道中記」、九位「新天地」、十位「ジャン・バルジャン」。なんとこの映画史でとりあげたものは三十位まで一本もなし。ぼくの好みのものとしては、嬉しいことに「村の水車」が十八位に入り、「マルクス一番乗り」が三十位に入っている。「村の水車」に高い点をあたえたのは今村太平氏と滋野辰彦氏だが、この他にも今村氏のおかげでディズニー漫画「ハワイ情緒」や「ミッキーの化物退治」までが二十五位、二十六位となっている。マルクスに高い点をあたえたのはネオリアリズムの提唱者北川冬彦氏。さすがあ。  日本映画はどうか。「五人の斥候兵」と「路傍の石」がほとんど全員一致で一位、二位である。三位「母と子」。四位は「上海」だがこれは実写の方で、山田五十鈴主演のやつではない。以下、日本人の文芸作品好みが如実にあらわれて五位「綴方教室」、六位は「鶯」、七位は「泣虫小僧」。豊田四郎監督が六位と七位をとっているがあいにく「冬の宿」はベスト・テンに入らず十三位である。八位が前進座の「阿部一族」、九位が「あゝ故郷」、十位が「太陽の子」。いうまでもなく三十位までの間に喜劇映画は一本もなしである。 [#改ページ]  「エンタツ・アチャコの忍術道中記」 「エンタツ・アチャコの忍術道中記」は昭和十三年の暮に作られて、翌十四年の正月映画として封切られた。この年、喜劇に力を入れていた東宝では新春豪華陣第三弾として「エノケンのびっくり人生・はりきり戦線」、第四弾として「ロッパの大久保彦左衛門」、第五弾としてこの「エンタツ・アチャコの忍術道中記」を封切ったが、地もとの大阪では東京に先立ち、東宝・吉本提携で作られたこの作品を千日前東宝敷島劇場、梅田映画劇場、新世界東宝敷島倶楽部で一月四日に封切っている。当然のことだがいずれの館も大入り満員だったという。  ぼくがこの映画を見たのは戦後すぐの小学五、六年生時代、吹田東宝においてである。例によって山田、佐伯といった小学校時代の映画友達と一緒であったろう。とてつもなく面白かったので別の友達と、またはひとりで二度も三度も見に行った筈である。その当座、少くとも見て三、四年の間は始めからしまいまで全部|反芻《はんすう》できたのだが、現在ではほとんどのギャグが記憶から脱落しているのが残念だ。ギャグというほどのものはほとんどなく、エンタツとアチャコの動きや科白だけで笑っていたのかもしれない。このふたり、当時はそれほど面白かったのだ。作と演出は例によって岡田敬。これも例によってだが台詞を秋田實が書いている。製作は瀧村和男。撮影は平野好美。録音は俣野八郎。音楽は松平信博。  ファースト・シーン。のっけから白髪頭のアチャコが登場するのでちょっとびっくりする。供の者をふたりほどつれて、「やや。あれぞ怪盗紫団」などと言うのだが、これが実は花菱伝三郎兼光なる武士であり、花菱アチャコが二役をしているのである。怪盗団を見つけたかと思ったらたちまち斬られてしまい、早くも次のシーンでは臨終の床についている。「角之進はまだ戻らぬか」息子の角之進広重(花菱アチャコ二役)が戻ってきて父の枕もとに寄る。「父上。しっかりなさりませい」伝三郎むっくり起きて息子に顔を近づける。「お前は、アホじゃ」にやりと笑って寝てしまう。これにはぶったまげ、観客は大爆笑。 (画像省略)  次が写真ページにある橋の下の大捕物のシーン。目明しの石松(横山エンタツ)が捕手《とりて》を率いて怪盗紫団及びその首領大丸吉右衛門(上田吉二郎)を捕えようとするが、みごとに逃がしてしまう。捕手のひとりに、当時エンタツとの漫才だけのコンビであったエノスケがちょい役で出ている。捕手の親方は正力勝(進藤英太郎)といって、おでん(清川虹子)という娘がいる。珍しや清川虹子の娘役であるが、彼女とてこのころは娘役相応の年齢だったのである。ただし名前でもわかるようにやはり三枚目的娘役であって、石松に惚れていて追いかけまわすという役柄。親方に叱られた石松が「大丸の首を持って帰れ」と抛り出されれば、おでんも旅支度でそのあとを追う。  かくして大丸を父の仇《かたき》と狙う角之進と、目明し石松が後になり先になりの道中となる。途中、茶店で休んでいる角之進が二の腕の膏薬《こうやく》を貼り替えるのを見た石松、さてはという顔をする。石松は大丸の顔を知らず、ただ二の腕に刺青があるという証拠だけで捜しまわっているのである。以後、石松はしきりに角之進の周辺へ出没するので角之進も「怪《け》ったいな奴やなあ」と用心しはじめる。  宿屋のひと間。寝ている角之進のところへしのびこんできた石松が、しきりに寝返りをうつ角之進の膏薬をとろうとする珍妙なパントマイム。むろんエンタツの見せ場である。角之進を起してしまった石松、その膏薬の下に何があるかと訊ねるあたりから絶妙の漫才となる。「怪我してるだけやがな」「嘘つけ」「そんなら、めくってみい」石松、膏薬をめくり、そのままこそこそ出て行こうとする。「おい。こら。こら。ちょと待て。黙って行くやつがあるか」ここで頓珍漢《とんちんかん》な問答の末にやっと互いの身分と共通の目的を知り、一緒に旅を続けることになる。漫才シーンのおかしさはさすが秋田實の台詞だけあって、文章ではとてもあの、まどろっこしくてとぼけていて、時どきシュールにすっとぶ奇妙な感じは出せない。  道中を続け、とある茶店で休んでいるふたり。と、その前を通りかかった妖艶の美女(渋谷正代)がウインクする。たちまち眼尻を下げてあとを追うふたり。ところが連れこまれたところはなんと紫団の本拠だった。あとをつけまわすうるさい奴ら、ぶった斬ってやる、覚悟しろと一味がずらり抜刀する。たちまちふるえあがるふたり。角之進など、いやしくも侍でありながらうろたえて、「もし。あんさんがた。そ、そんな物騒なもん抜いて、も、もしものことがあったらどないしますねん。けけ、怪我しますやないか」とおろおろ声を出すだらしなさ。なさけない奴ら、殺すまでもあるまい、足腰立たぬほどこらしめてやれというのでさんざ痛めつけられたふたり、無残な有様となって目をまわしてしまう。だが、ちょうど通りかかった膏薬売りの娘おつぎ(堤真佐子)に介抱され、その父親実々居士(高勢實乗)の庵《いおり》に案内される。「口惜しいなあ」「なんとかあいつらを、やっつける方法はないやろか」「忍術でも使えたらなあ」養生しながら石松と角之進が愚痴っているのを聞いた実々居士、ふたりに忍術の秘伝一巻があると持ちかける。もちろんにせものだが、角之進は喜んでこれを買う。もういちど紫団の本拠へ乗りこもうとするふたり。角之進に惚れているおつぎは、彼の袂《たもと》にそっと手紙をしのばせておく。インチキの巻物を買わせた詫び状である。そうとは知らぬふたり、これさえあれば千人力と、堂々悪人どもの山塞へ乗りこんだはいいが、いざ敵と対面してからやっとおつぎの手紙に気づき、読むなりたちまちふるえはじめ、逃げまわる。ついにかえり討ちか、というとき、断崖の上に建っていたこの山塞がぐらりと傾く。おそらくは「黄金狂時代」をヒントにしたのであろうが、この山小屋のミニチュア、まことにお粗末であった。  大騒ぎしながら悪人どもが逃げ出した時、石松、角之進もろとも山小屋は崖下の谷川へどぶーん、水に浮かんだまま川を流れていく。その次のシーンこそぼくがこの映画の中で最も抱腹絶倒した場面である。といって、別に凄いギャグがあるとかいったものではない。山小屋の中でぶっ倒れていたふたりが息を吹き返し、あたりを見ると水浸しである。「水や」大あわてのふたり、手桶で水をすくっては窓の外へ捨てようとするのだが、すべったり転んだり、互いに水をぶっかけあってひっくり返ったり、同じ山小屋の内部ですでに池のようになっている土間へ水を捨てたり、その動作の無意味さ、猛烈なエネルギーの空転ぶり、狂気の如きナンセンスな白痴的動作、これがこの世のものと思えぬほどえんえんと続き、まったくもう腹が痛くなるほど笑ったものである。このカットをカメラ据えっぱなしでえんえんと撮った岡田敬の才能には感心せずにいられない。  一方実々居士とおつぎの親娘は巻物を売った金を懐中に、庵をたたんで江戸への旅にのぼる。道中、猿飛左助の子孫で猿飛孫六(森野鍛冶哉)という者に逢い、実々居士の持っていた巻物は先祖白々居士から伝わった本ものの極意書だということがわかる。ここで猿飛左助(森野鍛冶哉二役)が白々居士(高勢實乗二役)に忍術を教わっているカットが挿入される。  石松と角之進はまたしても旅を続ける。まだ巻物をにせものと思い切れない角之進に石松が「お前、アホか」「ああ、おれはアホ。こら。アホとは何やアホとは」などと言いあい続け、それならというので角之進は忍術をちょいと試してみる。この忍術の呪文というのが「パーリチャンたらギッチョンチョンでパイのパイのパイ」だから馬鹿ばかしいが、これをアチャコがやるとなんともいえぬおかしみが発生し、腹をかかえるから不思議なのだ。角之進の姿がぱっと消えてしまったので石松は仰天する。やはり本ものであった、と喜び勇んだふたり、枯枝にまたがって空を飛び、紫団のあとを追って江戸へ、江戸へ。途中、石松は再々おでんに追われたり、宿屋で角之進がいない間に石松が巻物を捜したりするシーンがある。「おかしいなあ。あいつ巻物をどこへ隠したんやろ。ははあ、あいつさっき腹が減った言うてたから食うた……食うわけはないな」こうしたシュールなせりふ、エンタツは絶妙である。  かくして主要人物が江戸へ集まることになる。江戸における紫団の巣窟《そうくつ》はひとの恐れる化物屋敷。例によって骸骨など盛り沢山のお化けの仕掛けで石松が何度も腰を抜かすことになる。角之進は「パーリチャンたらギッチョンチョン」の呪文で大活躍、ついには巨大な蝦蟇《がま》となり、一味を捕え、父の仇を討つ。  ラスト・シーンは小高い丘に旅装で郷里へ帰る途中の一行が休んでいる場面。石松、おでん、角之進、おつぎ、実々居士が腰をおろしている。そして、例によってカメラ据えっぱなしの漫才。「奥さんは、なんで奥さん言うか知ってるか」「あれは家の奥に居るから奥さんや」「そんなら二階に居ったらお二階さんか」「お二階さん」一同大笑い。「お二階さん」笑う一同にダブってエンド・マーク。この最後の漫才は秋田實らしくもなく、つまらなかった。キネ旬批評欄にも村上忠久氏が「ラスト・シーンの漫才など余りに安易な行き方として感心しなかつた」と書いている。他に出演者は曲芸師に吉本のクレバ清とクレバ栄治、職人にやはり吉本の春本助次郎。 「これは失禮」「新婚お化け屋敷」と並ぶ、エンタツ・アチャコ映画三大傑作の一つである、と、ぼくなどは思うのだが、前記村上氏はあいかわらず厳しい。もう少し引用しよう。 「エンタツ、アチャコのティームは次第に映画馴れがして来て、今やその動きだけでも相当の面白味を出せる様になつたと思ふのに、その映画が依然として漫才調であるのは甚だ感心しない。岡田敬など同じ漫才調をねらふのならば二人の科白のやりとりに於けるよりも、全体の物語の描き方に於て此の味を出す様にして貰ひたかつた」  この辺、なんとなくわかる気もするのだが、漫才そのものが抜群の面白さだったのだからしかたがない。漫才の口調を全篇にちりばめ、つまりそうなると全面的に秋田實の脚本ということになるが、登場人物全員にそれをやらせたのでは、観客が納得しないのではなかっただろうか。やはりエンタツ・アチャコの、それもやや時間をながくとっての漫才だからこそ面白くなったのではないかと思う。とにかく村上氏の批判、ドラマトゥルギーとしてはそれで正論なのだろうが、至難の業《わざ》でもある。 「之では忍術を持つて来て作の中心興味にしようとしてゐるが、まだまだ忍術のナンセンス的な砕き方が足らない。その為に此の映画にあつても前半のエンタツ、アチャコ──特にエンタツの演技を中心として画面が進んで行く間はどうにか楽しめたが、中頃から忍術が加はつて来ると所謂《いわゆる》忍術者の常套的な表現の型を破る物が少なく、予想してゐた事とは反対に、忍術が映画の動きを束縛しがちになつて、アクション・コメディとしての楽しさは極めて平凡化してゐた」  この辺もよくわからない。忍術のくだり、小学生のぼくの目には他の忍術映画と比べ最高の面白さであったと思う。もっとも、今見ればどうだかわからない。しかし、昔見た映画を今見た時は必ずそうなのだが、数十年前に見た時の感興に支配されてしまって批判的に見ることは到底不可能であるような気もする。 「此の後半のつまらなさは忍術の扱ひ方計りではなく、実々居士や猿飛やの主人公達に絡ませての事件の進行が手際よく描かれてゐなかつた事もあるが、何よりも岡田敬が主演二人組の珍妙な個性と忍術とを加へ合せての興味しか出せず、掛け合はせての変化を見せなかつた事が、映画の平凡化の最大因になつたと思はれる。ギャグの配置や、所謂喜劇的なシテュエーション等よりも、屁つぴり腰の横山エンタツの動きに笑素を探る時、エンタツ、アチャコ映画は新しき風貌を呈するのではあるまいか」  進行の手際の悪さはたしかにあったようだ。だが、エノケン映画などに比べ、この映画などエンタツ・アチャコの個性をそのままフィルムに定着させたことだけでもお手柄ではなかっただろうか。そしてまた、エンタツの動きの面白さは前述した二、三のシーンで充分発揮されていた筈である。エンタツのことは「あきれた連中」で少し書いたが、アチャコとてこのころは実におかしく、後年のアチャコにない面白さを持っていた。例の、片手を前につき出してのよたよた歩きこそしなかったが、ああいった動作の片鱗はすでに見られたし、何よりもそのとぼけた科白まわしが観客の腹をかかえさせた。実生活ではむしろ気難かしい方だったと言われる若い頃のエンタツに比べ、日常のアチャコはまことに面白かったらしい。「鯉名の銀平」で書いた例の婦人雑誌の附録と思える俳優名鑑にはアチャコの記事が出ていて、それによると、一夜、お茶屋に遊んだアチャコの「言ふこと、なす術《すべ》のあまりのをかしさに居合せたる一同、芸者幇間に到るまで身分を忘れ腹をかかへて笑ひ転げぬ」と書かれている。アチャコのそうした持ち味が何ら小細工の要らぬ本性そのままの地であったのに比べ、エンタツの猛勉強ぶりは彼の日常を気難かしくさせ、後年の彼にとってかえってマイナスに作用した。「日本映画俳優全史」(現代教養文庫・猪俣勝人・田山力哉)によれば「アチャコは監督のいう通りを演じて、好感をもたれたのに対して、エンタツの方は持ち前の才気にものをいわせて勝手にその場その場で思いつきのギャグを連発し、かえって監督に嫌われることになった」そうである。後年のエンタツは喜劇陣オールスター映画などでみじめなほどの端役を貰っていた。しかしそれにもかかわらず絶頂期のエンタツの芸を記憶し、高く評価している者もずいぶん多いのである。 [#改ページ]  「ロッパの大久保彦左衛門」 「ロッパの大久保彦左衛門」は昭和十四年の一月十一日、大阪の東宝敷島倶楽部で東京に先立って封切られたが、この当時五歳だったぼくは当然のことながらひとりでは見に行けなかったし、つれて行ってももらえなかった。さらにその何年かあと、昭和十五年製作の「エノケンの誉れの土俵入」と二本立てでニュー・プリント封切されたことがある。大東亜戦争突入前後のことですでに二本立てが珍しい時代となっていたが、ロッパの方が八巻二〇四七米、エノケンが六巻で一五七四米、どちらも短いめの作品だったから二本立てにしたのだろう。ロッパの方はさらに短くカットしてあったのかもしれない。  この時も見られなかった。いや。見に行くつもりで家族だか親戚だか、女中もいたと思うが、まあそういった人種と一緒に映画館の前までは行ったのだが、恨めしや「今週はお子達見られません」の貼り紙。なんでエノケン、ロッパを子供が見たらいかんのやろねえと家族が話しあっていたことを思い出す。この時は、かわりにどんな映画を見せてもらったのだったか失念した。  やがてこの二本立てが田辺キネマへやってきた。この映画史に田辺キネマなる二番館の名が登場するのは初めてである。少し詳しく書いておこう。  このころぼくの家は東住吉区山坂町四丁目にあり、近くに山坂神社があった。家から神社へ行くには「十三間道路」と呼ばれている広い舗装道路を横断しなければならなかったのだが、ある日ぼくは友達何人かと一緒にこの道路を、阪和線の線路とは反対の方向にどんどん歩いて行った。子供の足で二、三十分も歩くと道路は南海電車平野線の線路の手前で行き止まりになっていて、正面には国旗掲揚でもするのだろうか、ポールが一本立っていた。そして道路の右側には映画館があった。この映画館こそ、その後ぼくがたびたびお世話になることになった「田辺キネマ」略称ターキーという二番館であり、今後この映画史にもたびたび登場するから、読者はご記憶願いたい。  この初遠征の日、ぼくは映画こそ見なかったが、何故か非常に感動していた。家に帰ってきて「今日は十三間道路の終点まで行ってきた」と、誰かれなしに話したものである。その後、田辺キネマのある場所のことをぼくは「十三間道路の終点」と呼んだ。  と、まあそういったようなことをあるところに書いたら、SFファンと思えるひとがつい最近の田辺キネマを写した写真を送ってきてくれた。その附近に住んでいる人らしい。ついでにぼくの通学した南田辺小学校、当時は国民学校だったが、その校舎も写してきてくれている。学校も映画館も昔のままだった。田辺キネマは昔どおり、少しスロープになった低い場所に入口がある。なつかしいなあ。ながいこと行ってないなあ。いちど行ってみようかなあ。田辺キネマではもしかしたら「ロッパの大久保彦左衛門」と「エノケンの誉れの土俵入」の二本立てをまだやっていたりして。まさか。ジャック・フィニイのノスタルジアSFではないか。  ここではもちろん、子供にもこの二本立てを見せていた。場末の二番館では子供が大事なお客様である。このときぼくは女中のお静と一緒に見に行った。代代お梅だったぼくの家の女中の、いちばん最後の女中の名だけがお静である。このお静、二本立てを見終ったあと「ふん。どちらも短かったわ。だいぶちょん切ってあるんでしょ」などと言っていた。 (画像省略) 「ロッパの大久保彦左衛門」は斎藤寅次郎が「水戸黄門漫遊記」に次いで演出した作品。最初のうち「ロッパの唄ふ大久保彦左衛門」というタイトルで前宣伝されていたことからもわかるようにオペレッタ時代劇である。ただし歌の方はあまり記憶にないので、もしかすると歌の部分をカットしたのかも、と思わぬでもない。とにかくこれは喜劇としてはロッパ映画の大傑作である。他に見ていないものがだいぶあるので最高傑作と断定はできないにしても、それに近い筈だ。  最初のシークェンスは鳶《とび》の巣|文殊山《もんじゆやま》の戦い、言うまでもなく彦左十六歳の砌《みぎり》の初陣大功名のシーンである。最近ではこうしたことを知らぬ人が多く、講談のパロディができなくなってしまった。このあいだ時代小説のパロディで、鳶の巣文殊|菩薩《ぼさつ》というのを登場させたのだが、編集者のほとんどの人にわからなかった。  さて、ロッパ若造りによる髪をザンバラにした大久保彦左衛門(古川緑波)の大奮闘のシーンの次は、同じ戦場の別の場所。中根駒十郎《サトウロクロー》が敵の大将を仕留める。これを見ていた駒十郎の主人である川勝丹波守(渡辺篤)は、槍でもって家来駒十郎の腹を突き刺し、殺してしまう。恨めしげな駒十郎の顔にだぶってア、ア、ア、ア、ア、ア、アーという|減五度 和音《デイミニツシユ・コード》を分解した不気味なスキャットが聞こえてくる。丹波守はいうまでもなく家来の手柄を横取りして出世するのである。  さて、それから数十年。徳川家光(小笠原章二郎)の世。今は武士道の精神地に落ち、することもなく安逸|奢侈《しやし》の生活を貪《むさぼ》る家臣どもにやきもきしている彦左。長刀をたばさみ鎧に身をかためロバに乗って城中へ行けば皆に笑われ(あたり前だ)、おまけに殿中の抜身はご法度《はつと》だというので彦左は大名たち、東北侯(大谷友彦)、中京侯(山内八郎)、浪花侯(大倉文雄)、九州侯(菊地双三郎)に責められる。さらにまた、刀は一定の寸法以上の長さであってはいけないなどとも言われる。彦左が「では刀は、中味の長いのがいかんのか、それとも鞘の長いのがいかんのか」と問うと中京侯。「なに言ってりゃあす。鞘の方にきまっとるぎゃあ」  さっそく彦左、次の日には短い鞘の先から長く刃先のとび出した刀を差して登城する。そのままの恰好で大広間へ行き、三三五五談笑している大名たちの間をうろうろ歩きまわるから大名たちびっくり仰天。「わ」などととびのいたりし、大騒ぎになる。  家光公(小笠原章二郎)はまったくの木偶《でく》人形。何ごとにつけても「よきにはからえ」で家臣の言いなりである。この映画の小笠原章二郎は出演シーンこそほんの三、四カットだが、ぴたり板についていて印象に残った。科白《せりふ》も「よきにはからえ」だけで、人形のようなきょとんとした顔が傑作。この映画、多彩な脇役によって成功したともいえる。ロッパ一座の渡辺篤は本来なら動きの少いロッパにかわってドタバタを引き受ける役まわりなのだが、この映画では悪役にまわっている。しかし、柄にはあっていて、狡猾《こうかつ》そうな眼の演技など天下一品。やはり名脇役といえる。渡辺篤にかわってこの映画では一心太助に扮した藤原釜足がドタバタを演じているが、これも好演である。  さてその太助は言うまでもなく竹を割ったような気性で彦左に愛されている一の子分であるが、喧嘩早いのでいつも騒ぎを起している。その日も魚河岸で、ちょっとした言葉のやりとりから喧嘩となり、魚屋たち(山野一郎・石川冷・他)からぶん殴られている。殴られてはすっとんで、魚貝類を並べた店さきの仮台を片っぱしからひっくり返して、でかい蟹に尻をはさまれたりし、喧嘩相手はふえる一方である。ご注進ご注進と、これを彦左に伝えるのが用人の笹尾喜内(高勢實乗)である。アノネおっさんの高勢實乗といい先の小笠原章二郎といい、この時代にはチョイ出でありながら場面をさらえる名脇役が豊富で本当に楽しかった。  子分の一大事というので彦左が喜内と共に魚河岸へ駈けつける。ちょうどこの時太助はまたもや仮台をひっくり返し、その仮台に乗っかっていた大蛸《おおだこ》に食らいつかれて生命の危険にさらされている。人間ほどの大きさをしたこの張りぼての大蛸は、でかい目玉が描いてあったりして、まことに不細工な造りであった。  喜内あわてて荒物屋の店さきに走る。「塩」と書いた叺《かます》が置かれている。喜内、塩という字を掌に書いてみてから、さらに舐《な》めてみる。こうしたしつっこい演技も高勢實乗がやれば味があり、そんなことにも当時の観客は大喜びだったのだ。  喜内、ひとつかみの塩をぱらり大蛸に振りかけると大蛸はたちまちぐったり。太助は命拾いをする。  太助は女房のおなか(江戸川蘭子)とも、仲が良すぎて時おり痴話喧嘩をする。口論の末におなかが手近のもので太助をぶん殴る。「あ痛っ」押さえた額から太助が手をはなすと直径七、八センチのタンコブ。「まあお前さんご免なさい」唾をつけるおなか。たちまち仲なおりしてまたもやべたべた。  その太助はある日、老婆(清川虹子)が堀川へ身投げするのを目撃。助けようとしてとびこんだはいいが自分が溺れそうになる。「身投げだ身投げだ」と集まってきた野次馬の見まもる中を、なんと老婆が太助を背負って川からあがってくる。「死のうなんてよくない料簡《りようけん》だよ」と老婆が太助に説教する。「なに言ってるんだ。おれはお前を助けるつもりだったんだ」と太助。老婆、はっと気がつき、「そうだ。わたしゃ死ななきゃいけない」また飛びこもうとして皆に止められる。今度は太助が老婆のさっきの科白とまったく同じ説教をはじめる。清川虹子、このころは娘役に、老婆役にと、喜劇映画に引っぱり凧《だこ》。まだ若かったのに老婆役も達者にこなしていた。  この老婆は殺された中根駒十郎の未亡人で、娘おとよ(若原春江)と暮らしていた。太助が聞けばなんと、かの川勝丹波守道義こそ武士の風上《かざかみ》にもおけぬ人非人《にんぴにん》ではないか。彼女の持っている反魂香《はんごんこう》を焚くと、たちまちあのア、ア、ア、ア、ア、ア、アーのディミニッシュが流れ、どろどろと中根駒十郎があらわれて恨みを告げるのだ。  この映画には吉本から、あきれたぼういずが加わっている。いわゆる第一次あきれたぼういずで、メンバーは川田義雄(のち晴久)、益田喜頓、坊屋三郎、芝利英である。芝利英は坊屋三郎の弟だったがのちに戦死。この四人のうち、この映画のすぐあとで川田義雄が抜け、同じ吉本でミルク・ブラザースを作り、かわりにロッパ一座にいた山茶花究が加わる。四人は旗本奴の衣裳でギターをかかえ、川勝丹波守の屋敷の庭さきで唄う。何を唄ったかは記憶にない。このころからすでに例の※[#歌記号、unicode303d]ダイナ、ダイナはなんダイナ、ダイナはあちゃらの都都逸《どどいつ》でなどとやっていたのだろうか。  このように今をときめく川勝丹波守、毎夜のように宴を催しているのだが、となりが仲の悪い彦左の屋敷である。あきれたぼういずの唄が終ると隣家との間の塀がどどどどと倒れてくる。彦左の屋敷の者が大勢塀によじ登って聞いていたのだ。  この映画には他にも多くの俳優が出ているので、ここで列記しておこう。丹波守が言い寄る小百合という娘に神田千鶴子、その許婚者に土屋伍一、腰元おうめという端役に、なんと山根|寿子《ひさこ》、同おはなに伊井※[#「口+令」、unicode5464]子、求婚する娘の暁に里見良子、同響に水上冷子、同光に中村正子、酒井忠次に田中謙三、向井団九郎に島津勝次、荒熊鷲之助に井上忠美、浅野|内匠頭《たくみのかみ》に世古ハジメ、大石内蔵助に小高まさる、その他大勢の腰元がロッパ・ガールズ。世古ハジメと小高まさるは子役だったように憶えているが、出てきたシーンがどんなギャグだったのかは失念。  ついでにスタッフを書いておく。東宝東京作品で製作が瀧村和男。原作菊田一夫。面白い筈である。さらに脚色が小国英雄と山崎謙太。強力なメンバーである。撮影三村明、録音宮崎正信、音楽鈴木静一。  丹波守の悪業を知った彦左、憤然とし、これを膺懲《ようちよう》しようとする。千代田城内の閣議の席上、反魂香を焚こうというのだ。これを知った丹波守はびっくりする。あんなものに出てこられては一大事というので、反魂香をすり替えてしまう。  いよいよ閣議の当日、諸大名並ぶ中で彦左は松平伊豆守(若宮金太郎)に一伍一什《いちごいちじゆう》訴えるが逆に丹波守から反論され、証拠の提示を求められる。ここで彦左、すり替えられたことに気づかぬまま反魂香を焚く。小野小町(鈴村京子)が出てきて一首詠んだり、釜に入ったままの石川五右衛門(上田吉二郎)が出てきて※[#歌記号、unicode303d]石川や浜の真砂はなどとやったり、ナポレオン(俳優名不詳・配役欄にはただ「外人」と書いてある)が出てきたりする。彦左、変なものが出てくるたびにあわてて反魂香を消し、次のに火をつけるのだが、駒十郎は出てこない。丹波守はこれを見てせせら笑っている。  次に出てきたのは牛若丸(沢村昌之助)と弁慶(深見泰三)である。※[#歌記号、unicode303d]京の五条の橋の上などと唄いつつ、弁慶が長刀《なぎなた》を振りまわしはじめ、大広間は上を下への大騒ぎとなる。と、彦左の眼の前の畳に、逃げまどう誰やらがぽとりと何かを落す。これぞ本物の反魂香。落したのは丹波守。  騒ぎがおさまったところで彦左、あらためて本物を焚こうとする。「や」失策に気づいた丹波守、おろおろしてこれをとどめようとするが、彦左はそ知らぬ顔で火をつける。ア、ア、ア、ア、ア、ア、アーの減五度が聞こえ、中根駒十郎があらわれる。丹波守を見て「やっ。恨めしきご主人さま」と駈け寄り、首を絞めあげながらの恨みごと。「かの鳶の巣文殊山の戦いで……」、「く、苦しい。ゆ、許してくれ。許してくれ」彦左が反魂香を消し、駒十郎がいなくなっても、まだ自分の首を押さえて苦しんでいる丹波守。  かくて一件落着。丹波守は切腹を言い渡される。ここでも家光、あい変らず「よきにはからえ」である。  最後のシークェンスは例の盥の登城である。旗本の駕籠登城が禁じられる。へそ曲りの彦左、旗本一党と計らって腰元に盥をかつがせ、元気に登城する。 (画像省略)  のバック・コーラスで盥の彦左が唄う。並木道を千代田城へと向かっていく行列にだぶってエンド・マーク。合唱はビクター合唱団で主題曲はビクターから発売された。おなかになった江戸川蘭子も唄っているらしい。なお、スチール写真で見るとロッパの乗った盥をかついでいる腰元のあと棒の方が山根寿子である。このすぐあと、彼女は「むかしの歌」で花井蘭子と共演し、次第に売り出していく。それにしてもロッパの乗った盥、重かっただろうな。  これが二本立てのうちの一本であり、しかももう一本のエノケンがこれに劣らず面白かったのだからぼくは有頂天になった。今度はひとり、裁縫箱や箪笥の抽出しの底をあさって小銭を何枚か拾い出し、十三間道路をてくてく歩いて見に行った。当時二番館なら小人は十五銭くらいで入場できたのである。今考えればこれが親に内緒で映画を見に行った最初ではなかったか。国民学校一、二年生のころである。  昭和十四年東宝の正月映画第四弾として封切られた時の成績はロイドのところで書いたから省略する。  キネ旬批評欄では村上忠久氏が褒めている。むろんべた褒めではないにしても当時の批評とすれば讃辞に近いのではあるまいか。 「オペレッタ物としては之は一通りすべてのさばき方にそれらしい物を持つて成功して居ると言へる部類に属する。その第一の原因は菊田一夫、小国英雄、山崎謙太などの作者達が、歌と科白を適宜にオペレッタらしく組立て、古川ロッパのみに頼る事なく、一つの映画としてのまとまりを示して居る所にあり、第二の原因としては斎藤寅次郎が、よしまだかつての彼らしい独自さをオペレッタ形式の中に充分生かして居ないにせよ、『法界坊』辺りよりは幾分、彼らしい物を画面全体に示した事があげられよう。(略)無論、鈴木静一の音楽処理にせよ、歌曲その他の点で随分イージイ・ゴーイングな物であり、音楽監督者としての彼はまだ編曲者以上を出ないが(略)アトラクションとしてはアキレタ・ボーイスが秀逸であつた。(略)之には藤原釜足、江戸川蘭子、高勢實乗などの助演者の力も相当あつたと言へよう。古川ロッパ自身については言ふべき事は多くないが、『おとうちやん』の如くにはロッパそれ自体であり過ぎない事が取柄であらう。色々な意味からも斎藤作品として『水戸黄門漫遊記』よりは物語の展開の流暢《りゆうちよう》さが見られる物であつた」  文中の「おとうちやん」というのは、昭和十二年にやはり斎藤寅次郎で撮った「ロッパのお父さん」のことであろうか。十三年には「ロッパの子守唄」というのもあり、「大久保彦左衛門」と同じ年の十四年には「ロッパの駄々ッ子父ちやん」というのもある。これらはすべて傑作であったとされているが見ていない。他にもお父さん物があり、当り役だったようだ。 [#改ページ]  「右門捕物帖・拾萬兩秘聞」  ファースト・シーンから志村喬の、あばただらけの顔が大写しになるのでちょっとびっくりする。「御用だ。神妙にしろ」志村喬があばたの敬四郎を演じているのである。すでに黒沢明の初期の作品など、主にシリアスなドラマに出演している志村喬を知っていたから奇異な感じはしたが、この映画を見た頃にはすでにこれが戦前の、それも相当に古い映画であることを知っていた。中学二、三年の頃であったろう。さほどおどおどせず、時間も気にせず、落ちついて見ていた記憶があるからだ。学校をサボるのも二、三年めになってくると馴れてきて、ふてぶてしくなっている。見たのは梅田小劇場。プリントは大変綺麗だった。八巻二〇六九米となっているから、ほとんどカットもされていない。  どうやら犯人を墓場に追いつめたらしい村上敬四郎。犯人と格闘になる。  縁側に面した座敷で昼寝をしていた敬四郎。「うぬ。神妙にしろ」などと叫んで突然じたばたとし、目醒めて起きあがる。「ぬ。夢であったか」  それでもこの映画、ファースト・シーンが彼のクローズ・アップであることからもわかるように、志村喬を相当大きくフィーチュアしていた。すでに何度も映画化されている嵐寛寿郎の右門捕物帖、このあたりで趣向を変えて志村喬に助演させ、重厚さを出そうと試みたのではなかっただろうか。もしそうならその試みは成功したといえそうだ。この映画におけるあばたの敬四郎は、右門に敵意を燃やし、いや味を言い、捜査の邪魔立てをする、原作に於けるが如きあのいやなあば敬ではない。優秀な後輩にいつも手柄を奪われ、自分は気ばかり焦って功績がなかなかあがらず、常に犯人逮捕を夢見ているという中年の哀れな男である。今でいうなら現代的捜査について行けなくなった鈍重な中年のヴェテラン刑事といったところであろうか。 「右門捕物帖・拾萬兩秘聞」は製作が日活京都、配給が日活、昭和十四年の一月七日、東京では富士館、帝都座、神田と麻布の各日活館など、大阪では常盤座、公楽座で、いずれも杉狂児の喜劇「地上天国」と二本立てで封切られた。大阪では堂堂たる成績をおさめたそうである。原作は言うまでもなく佐々木味津三で、この映画が作られた頃はすでに故人。脇坂保二郎が脚色し、監督は荒井良平、撮影は吉見滋男、音楽は白木義信。  戦後この映画の再上映が許可されたのはGHQによる禁止事項の「仇討に関するもの」「歴史上の事実を歪曲《わいきよく》するもの」「封建的忠誠心を名誉あることとしたもの」「残忍、暴力を謳歌したもの」にほとんど触れなかったからであろう。刀の刃を見せてもいけなかったのだが、この映画にはチャンバラもほとんどなかったようだ。  キネ旬のあらすじ欄にはストーリイが前半だけしか書かれていない。キャストを書き加えつつ紹介しよう。 「幕府が日光御造営その他引つづく土木工事のために御納戸の金蔵がひどく淋しくなつた。なんとかしなくては一大事が突発するといふので時の老中松平伊豆守(香川良介)が独断で大坂城内にある十万両の竹流しの分銅金を二十頭の馬につけて江戸へ運ばせた。ところが鈴ケ森にさしかゝつた時怪し気なる煙にとり巻かれて馬も十万両も紛失して了つた。一行の責任者本多平助(磯川勝彦)はその場で殺され、黒部彌惣太(沢田清)は行方不明になり、細川求女(原健作)だけ残つて注進に及んだ。──さあさうなると伊豆守の立場がなくなる。城内へ搬入の約束の刻限は明後日の子《ね》の上刻だ。それまでに何とかして失はれた金塊を探し当てねば切腹ものだ。事件の手蔓となるものは襲撃のされた場所に落ちてゐた煙硝薬の筒二本。そこへ現はれたのは八丁堀与力近藤右門(嵐寛寿郎)であつた。事件が事件だけに公の探査もならぬから�右門よ、しつかり頼むぞ�と言ふ伊豆守の信頼ある言葉を受けた右門は──しかし、右門は私邸にこもつたきり活け花に三味線に事件を忘れたかの様に探査の手を出さうとはしなかつた。例のおしやべり伝六(田村邦男)がやつきとなつて好敵手あば敬(志村喬)が、両国座の女歌舞伎の一座に手を入れてゐるとか、江戸で評判七化け半次(仁礼功太郎)を追つかけ廻してゐるとか、口うるさく報告するのだつた。が、右門は容易に腰を立て様とはしなかつた。煙! 煙! 右門は呟いた。両国座の出しものは児雷也である、ドロンドロンと煙とゝもにパツと現はれる児雷也の芝居! これは臭い! とにらんだ右門は漸く腰を上げた! 児雷也──煙──鈴ケ森の襲撃も、犯人は煙を利用したのだ! しかし、立ち上つた右門、果して名解答をなしたか? 事件は益々こんがらがつて行く……」 (画像省略)  配役は他に座頭重兵衛(河部五郎)、安藤若狭守(市川小文治)、ちょんぎれの松(林誠之助)、仲間《ちゆうげん》角助(大崎史朗)、泣き目の甚太(長田仁宏)、堀田備後守(若松文男)、大久保加賀守(葉山富之輔)、用人《ようにん》源太夫(志茂山剛)、京極左京亮(福井松之助)、目すりの為(大川原左雁次)、いたちの三太(小池柳星)、陣馬の吉(市川吉之助)、伊豆守の息子・京之助(旗桃太郎・子役)、澄江(深水藤子)、阪東あやめ(原駒子)、阪東小雛(比良多恵子)、町娘お照(清水照子)、奥方萩の方(成宮吹子)、町娘お町(京町ふみ代)、同お文(三好文江)、同おふじ(近江富士子)、同お由(鷹島由良子)、女中お六(花野国子)、つるやのお神(大川一美)。キャストからもわかる通り、プログラム・ピクチュアとしてはなかなかの大作である。一種の推理ものなので登場人物が多いのかもしれないが。  あらすじやキャストをながながと書きうつしたのは、恥かしながらこの映画に関しては内容をほとんど記憶していないからだ。たいしてギャグもなければ活劇もなく、推理にもさほどの興味がなかった以上忘れてしまったのは当然といえる。後半の事件解決のくだりも真犯人も、さっぱり記憶にない。それでも物語がきちんとしたまとまりを見せ、犯人の意外性も確かにあったということだけは憶えている。見終ったあと、満足しているからである。その後嵐寛寿郎の右門は何度か見たが、ぼくの見た中では最も初期のこの作品に対してぼくはいちばん好感を抱いている。この映画の右門はまだ結婚していない。のち、あの色っぽい花柳小菊などが女房役となり、べたべた痴話喧嘩したりする右門は見ていられなかった。頬の引っ掻き疵《きず》を自慢らしげに他人に見せたりする右門など、とんでもない。独身青年の爽快さがないと探偵役はよくないのではあるまいか。戦後の「帯とけ仏法」などになってくるとエロ味が濃くなり、これもいやらしかった。  志村喬のあば敬は、この映画の後半、犯人を深追いし過ぎてとうとうあべこべに捕まってしまう。縄で縛られ、犯人たちのかくれ家につれこまれるのだが、縛られたままうとうと居眠りなどしたりするところが、どうにも救いようのないダメ中年の表現に思えて記憶に残った。横で犯人たちが処置に困り、相談している。「いっそのこと、殺してしまおうか」夢うつつでこれを聞いた敬四郎、「うはあはあは」などと声をあげて眼を醒まし、例の泣き顔とも笑い顔ともつかぬ表情で言う。「許してください。女房もいる。子供もいる」どうもなさけない男だが、この男との対比の上で右門は独身でなければならなかったのだろう。  敬四郎はラスト・シーンにも登場する。どうやら右門から手柄の一部を譲ってもらったらしいのである。ここでは右門と敬四郎、仲良しのいい同僚となっている。好ましいムードで映画は終る。  しかし、いくら好ましいムードであっても批評家にかかると、捕物帖は捕物帖ということでしか評価されない。友田純一郎氏の批評もたいへんにそっけなく、しかも短い。 「映画が立川文庫の代用をつとめる好個の一例。死んだ佐々木味津三の為には、大衆小説の代用とでも書いてやりたいが、それでは大衆小説が泣くだらう。嵐寛寿郎は東亜キネマ以来十有余年(?)名探偵はむつつり右門に扮して倦くことを知らず」  倦くことを知らぬどころか、アラカンはその後も右門を演じ続け、三十有余年に及んだのである。  興行価値欄には、やはり友田氏によるものであろうが、「筆者も子供の頃は立川文庫が好きだつた。昭和聖代の少年もやはりその種のものが好きとみえて代用品の封切景況またよしとか?!」と書かれている。  立川文庫と捕物帖はまったく別物だからこの書きかたには問題があるが、それはそれとして、ぼくは嵐寛寿郎が大好きだった。ぼくにとってアラカンは鞍馬天狗でもなければ右門でもなく、河童大将だったのである。「河童大将」のことはいずれこの映画史に出てくるから今回は省くとして、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンの時代劇四大スタアの中でいちばん好きなのがアラカンだったのだ。したがってぼくにとっては「明治天皇と日露大戦争」以後のアラカンは、アラカンではない。いや、それ以前「私刑《リンチ》」の時からすでにアラカンではなくなりかけていた。年をとってよぼよぼになり、わけのわからぬ片言を口走って観客の爆笑を呼んでいたあのアラカンは、アラカンであって別のアラカンなのである。そんなアラカンを「ズレ具合がおかしい」などと褒める人がいた。ぼくは褒めない。ズレているのは芸ではないからだ。二枚目であった長谷川一夫はズレなかった。活劇専門の立役は臭くなくてはいけないからズレるのが宿命なのである。ひとは処世を知っていた右太衛門に、いやらしさがあるなどと言い、処世を知らずしばしば週刊誌の記事にされるアラカンをはやしたて、そして笑いものにしたのである。  嵐寛寿郎。明治三十六年十二月大阪生まれ。歌舞伎の嵐徳三郎が義兄であり、森光子は姪にあたる。昭和二年二月、マキノ省三の撮影所に入り、のっけから「鞍馬天狗・角兵衛獅子」で主演した。以後五十年現役だったわけで、考えるとこれは大変なことだ。笑われようがどうしようがぼくが作家として五十年現役であり続けようとしたならばあと三十年以上書き続けなければならないのだから。もちろん、そんな馬鹿げたことをやる気はない。  さて、この映画の前後に封切られた作品で、ぼくがのちに見た映画、評判になっていた映画を二、三紹介しておこう。  フランス映画「望郷」が、この年の二月九日、帝劇、武蔵野館、大勝館等松竹洋画系で封切られ、在庫一年、東和商事が周到に宣伝した甲斐があって猛然たる興行的威力を発揮した。ぼくがこの映画を見たのは高校一年の時であり、もはや性的に成熟していたのでこの悲恋は充分に胸を打った。あまりにも有名過ぎる芸術映画であり、フランス名画祭といえば必ず上映される代物であり、見たのがすでに青年時代ということで、例によりこの映画史からは省くが、スタッフ、キャストだけ紹介しておこう。「シュバリエの流行児」に次ぎ、「舞踏会の手帖」の前に作られたジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品である。アシェルベという本職の探偵が作った小説をもとに、デュヴィヴィエが原作者と協力してストーリイを書き、「ジェニイの家」のジャック・コンスタンが脚色し、「舞踏会の手帖」のアンリ・ジャンソンが台詞を書いている。主演者はご存じジャン・ギャバンの他に、「ドン・キホーテ」で紹介したミレーユ・バラン、その恋敵でモール生まれの女にリーヌ・ノロ、警察のスパイに「我等の仲間」のシャルパン、他に「赤ちゃん」のジルベール・ジル、「大いなる幻影」のダリオ、ガブリエル・カブリオ、リュカ・グリドオ、フレール、フランス劇壇の名優サチュルナン・ファーブルなど。原題はいうまでもなく「ペペ・ル・モコ(PEPE LE MOKO)」。キネ旬では批評家の合評会、興行者の合評会などを催して大騒ぎだ。  ところがこの「望郷」よりも前の週に、すでに「望郷」以上の興行成績をあげていた映画がある。即ち大阪では東京に先立ち前年の十二月二十八日、京阪神の各松竹座で封切られ、東京では一月七日に前記松竹洋画系各館で公開された「ハリケーン(颱風)」である。原題「THE HURRICANE」、サミュエル・ゴールドウイン提供、ジョン・フォード監督作品で、ハリケーンの特撮が凄いというので大評判になった。ぼくがこの映画を見たのはもはや戦後も十年経った大学生時代、スペクタクル・シーンはもう見馴れていたが、それでもハリケーンのシーンはやはり凄かった。  この映画は、やはり超特作品になるのだろう。脚本がダドリイ・ニコルズ、撮影がバート・グレーン、音楽がアルフレッド・ニューマン、主演者はドロシイ・ラムーア、この映画の原作者であるジェームス・ノーマン・ホールの甥のジョン・ホール、メリイ・アスタア、C・オーブリイ・スミス、トマス・ミッチェル、レイモンド・マッセイという、堂堂たるスタッフ・キャストである。しかしなんといってもこの映画の主役は最後の四巻に登場するハリケーン。キネ旬批評欄でも村上忠久氏が「フォードとして特に見るべき劇的高調の力強さはない」と書きつつも、「実際にこの颱風のシーンは物凄い。二度と作られ、見る必要はないかも知れないが、とにかく一度だけは充分見て、以つて映画科学の進歩に驚嘆するに足る物であり、スペクタクルとしても之丈の物は今迄に見られなかつた」と書いているぐらいだ。ぼくもストーリイをほとんど憶えていないから、実際にドラマの方はよくなかったのだろう。  参考のため、昔のこのての特撮がどうやって作られたかを記しておこう。まず舞台となるマヌクラ島を、撮影所内にオープン・セットとして作ってしまう。その面積二エーカー半、入江が一エーカー余り、ここに椰子やバナナの木が植えられ、土人の小屋、教会、総督邸などが建てられる。十二気筒、三葉プロペラのウインドウ・マシンつまり大扇風機が四台、入江に沿って据えられる。逆風を起すための飛行機用発動機も五台。これらでもって時速九十マイルの風を起す。ここへさして三十本の消防用大ホースで横なぐりの雨となる水を噴出する。これに黒と黄色の煙が混ぜられて水しぶきとなる。この特殊効果考案者はジェームス・バセビ、セット総指揮はリチャード・デイ、小道具はジュリア・ヘロン女史、樹木を受持ったのがニック・スタッドラー。いやはや大変な騒ぎであったろう。一度やってみたいものだ。 「ハリケーン」と前後して、マンガ「ポパイのアリババ退治」が入荷し、十二月二十六日、東宝劇場で封切られている。原題「ALIBABA'S FORTY THIEVES」。ぼくがこの映画の存在を知ったのは中学二年の時、例の「ガリバー旅行記」が封切られた前後だったと思うが、その後なかなか見る機会がなかった。極彩色長篇マンガ映画などと書かれていたのでずいぶん見たかったものだ。二十年以上経ってから何度もテレビで見たが、もうその時にはポパイのワン・パターン・ギャグに食傷していたし、長さもたったの二巻四七一米だったからがっかりした。他のポパイ短篇とさして変ったところはなく、珍しくウインピーの登場が面白かったぐらいのもの。パラマウント特作、アドルフ・ズーカー提供、製作マックス・フライシャー、監督デイヴ・フライシャーである。ぼくが唯一、ポパイ漫画で興奮したのは「ポパイの大平原」であったが、これはだいぶあとで触れることになろう。  このころ、新興キネマの「孫悟空」という変な映画が封切られていて、ぼくはこれを小学校五、六年の時に吹田館で見ている。孫悟空になったのは羅門光三郎。ぼくはこのひとの主演映画を数本見ている。多少アクの強い立役であったが、歌舞伎的な基礎演技のがっちりと出来る俳優で、ぼくは好きだった。ただしぼくが見た作品はすべてこの人の最盛期をすぎてからのものらしい。「孫悟空」は第一篇、第二篇、第三篇と三巻ずつに分けられていて、それぞれ十二月三十一日、一月七日、一月十四日に大阪の朝日座などで封切られている。たいていの館では三篇出揃ってから「孫悟空大会」と銘打って一挙上映していたようである。ぼくが見た時も一本に編集されていた。  この「孫悟空」、評判がよかったためか同じ十四年の八月に「暴れ出した孫悟空」という続篇が、これは一本の長篇として作られ、ぼくはこれも、やはり吹田館で見た。エピソード三つに分けられた「孫悟空」よりも、続篇の方が印象に残っているので、この映画史において「孫悟空」は「暴れ出した孫悟空」の際、一緒にとりあげることにしよう。 [#改ページ]  「エノケンの鞍馬天狗」  昭和二十年、敗戦直前の大阪では警戒警報、空襲警報の発令されぬ日がなかった。警戒警報のサイレンはウーという単純山型ロングトーン、空襲警報はウーウーウーという連続波状音、時には警戒警報なしでウーウーウーが出るから大人はあわてた。われわれ子供はあわてない。面白がっている。  吹田市は伊丹飛行場のある伊丹市に隣接していたから、そこを爆撃しに行くB29の通り道だった。時には大編隊が飛んで行ったこともある。このB29が行きがけの駄賃に機銃掃射をしたり、積み残しの爆弾を落して行ったりするから油断できない。ぼくも二度怖い目に会ったがこれは別のところですでに書いた。  そのような毎日であってもやはり映画は見に行った。そのような毎日だからこそ行ったとも言える。なぜかというと前述の警報によって映画が中断されるからだ。警報が出るとその旨のアナウンスがあり館内が明るくなる。家に戻らなければしかたがない。そのかわり解除されてからもう一度行って入場券の半ペラを見せるとまた入れてくれるのだ。  しかしわが家から映画館までの道程はさほど簡単ではない。その頃の阪急電車の終点であった千里山駅から乗って次が花壇前のち千里山遊園前、次が豊津、次が市役所前、次が吹田である。現在は千里山と遊園前の間に大学前という駅がある。関西大学前である。  吹田駅から吹田東宝までは歩いて十数分。吹田館はさらに遠かった。  空襲警報になってしまうと電車まで停まる。いちど、例によって警戒警報が出たため映画館から戻る途中、空襲警報になって電車が豊津駅に停まった。プラットホームに出ると上空で空中戦をやっていて飛行雲がさまざまな曲線を描いている。「あっ。墜《お》ちた墜ちた」などと騒いで呑気に友人と喜んでいたものだが、あの墜ちた方の飛行機は当然我が日本帝国軍のものであったのだろう。 (画像省略) 「エノケンの鞍馬天狗」を吹田東宝で見たのはこのような時期であった。ちょっと見ては警戒警報で追い出され、しかたなく家に戻り、解除になってもその日はもう行けないから次の日に行く。昨日見たのと同じ部分を見たところでまたしても警戒警報。なぜか、必ずそういうことになっておるのだ。そんなことが五、六回くり返されてやっと全部見たものの、四、五回見たカットがあるかと思えば一度しか見ていない部分もあり、おまけにフィルムがずたずただから尚さら筋がわからぬ。今回これを書くためにキネ旬紹介欄を読んだが、記憶しているどのカットがストーリイのどこに嵌めこまれるべきなのかさえわからない。甚だなさけない次第ではあるがこま切れのカットを記憶しているかぎり並べ立てていくよりしかたがないのだ。  この時期、映画とはそのようなものであるとなかばあきらめていたふしがある。ぼくに限らずだ。たまに完全なプリントを見ると儲けものをしたような気になったぐらいだから。今だってテレビではなかなかノーカット版にお目にかかれないが、これはやはり、だいたいにおいてひとが映画に対し、カットされているものとあきらめてかかっているからであろうか。この時代の悪影響がいまだに尾を引いているかもしれない。不思議なことである。小説で、本の数ページ欠落したものが売りものになるだろうか。  東宝映画「エノケンの鞍馬天狗」は昭和十四年五月に製作された。製作は瀧村和男、原作はいうまでもなく大佛次郎、脚色は小林正である。「角兵衛獅子」と「天狗廻状」が下敷きになっているようだ。演出は「瞼の母」など時代物ばかり手がけてきた近藤勝彦、撮影は山崎一雄、音楽は例によって栗原重一である。  昭和二十年にぼくが見たのはもちろんニュー・プリントではなかった。戦争のため製作される映画の本数が減り、上映用フィルムに困った映画館が東宝から借り出してきたものであったろうか。そしてこのフィルムはこの時期、あちこちの二番館を転転としたのではないかと思われる。小松左京親分もこの時期に見ているからだ。 「鞍馬天狗の驚天動地の大活躍にもかゝはらず、新撰組の手によつて、次々と勤王の志士達が倒されて行く。新撰組に勤王の志士の行動を逐一密報する天狗廻状と言ふ怪文書が現はれたのだ」  開巻早早、エノケンの鞍馬天狗が白馬に乗り、志士たちの危機に駈けつけようとしているシーンがあったと記憶している。エノケンは身軽さが有名で、この映画の中でも愛馬に尻の側から一足跳びでぴょんととび乗るシーンが二、三回あった。エノケンほど背の低いスタントマンはいなかっただろうから、これは本当にやったに違いない。 「天狗廻状の主を尋ねて、鞍馬天狗は敢然として単身新撰組|壬生《みぶ》の屯所へ乗込んだ。屯所では時|恰《あたか》もお花見の園遊会の真最中──門番を煙に巻いてうまく邸内に滑り込んだ鞍馬天狗は、つい賑かな音楽に誘はれて、身の危険も忘れてのこのこと舞台の上に飛び出して、いゝ気持ちで得意の唄と踊りを面白可笑しく熱演した」  残念だがこのくだりもまったく記憶にない。 「見物の拍手喝采に気をよくして踊りつづける鞍馬天狗の命を早くもねらふ五つの銃口。鞍馬天狗は近藤等の隊士に発見されてしまつたのだ。銃声一発新撰組の追撃の手を辛くも逃れた鞍馬天狗は財布を落して泣いてゐる角兵衛獅子の子杉作と新吉を救つてやつた。この杉作等の親方長吉は新撰組配下の目明しなのだ」  このあたりから「角兵衛獅子」になる。配役はエノケン一座と東宝映画の混成で、近藤勇が鳥羽陽之助、芹沢鴨が如月寛多、杉作が悦ちゃん、新吉がギャング坊や、隼《はやぶさ》の長吉が永井柳太郎、黒姫の吉兵衛が沢井三郎である。目明し長吉にいじめられている杉作と新吉を助けてやるくだりでは、鞍馬天狗に痛めつけられるたびに、壁ぎわに頭をかかえてうずくまった長吉が尻をぺこり、ぺこりと上下させるという、永井柳太郎の珍演が記憶に残っている。  この映画でのエノケンはやたらに強い。前後何回か新撰組の隊士に取り囲まれるが、そのたびに「あらチョーイ、チョイと」などと言いながら二、三人斬り伏せてしまう。しまいには取り囲んだ相手に向かって「そんなにしつっこいと、また、チョーイ、チョイといくよ」と言っただけで敵はすくみあがるのだ。 「杉作等の口から鞍馬天狗の隠家を聞き出した長吉は、早速新撰組に急報して天狗を捕縛しようと狂奔する」  この映画でもエノケンはよく歌うが、記憶しているのは※[#歌記号、unicode303d]人を斬るのが侍だアというやつで、これは今でも小松さんと一緒に歌ったりする。これを鼻歌でうたいながら天狗が歩いていると、目明し長吉が斬りかかってくる。天狗はこれをかわしながら、片足を石垣の上にのせ「ほいっ。ほいっ」と言いながら平気で歩き続ける。どうもおかしなカットだけしか記憶にないので恥かしいが、実際この映画には、さほど新奇なギャグはなかったのかもしれない。批評欄でも友田純一郎氏が「ギャグは新しく、警抜でなくては少しも座興とならぬと言ふよりもエノケンを映画に生かす着想が最早彼の浅草に於ける舞台の踏襲であつてはならないのである」と言っている。だが、それにしてはずいぶん面白かった。なぜだろう。動きのギャグが面白かったのかもしれない。友田氏は「小林正の脚色は往年のセネット喜劇にあつた追跡のギャグをエノケンに使用して或程度の成功を収めてゐるが、監督者が時代劇ばかりとつてゐたひとなので洗練と快速を欠いてゐる」とも書いているが、その辺も記憶にはない。 「そんなことには、一向平気な我が鞍馬天狗は天狗廻状の発行者を尋ねて、宗像右近(柳田貞一)の屋敷に忍び込んで行つた。その夜、奥の一間で折鶴を折つてゐた美しいお園(霧立のぼる)の姿。天狗は忽ち恋の虜《とりこ》となつてしまつた。驚くお園の前にひれ伏した鞍馬天狗は�ああ、あなたこそ私の夢の女性だ�と恋を訴へた」  霧立のぼるはこの頃がいちばん美しかった。彼女のこれ以前の出演映画では最近前進座の「人情紙風船」で白木屋お駒に扮しているのを見たが慄然とするほどの美しさ。この「エノケンの鞍馬天狗」はその二年後、二十二歳の時の出演作品である。同じ昭和十四年でこれより少しあとの「エンタツ・アチャコの新婚お化け屋敷」にも出演していて、これも少年時代に何度か見ているのでいずれ紹介するが、とにかくこの時代から敗戦直前にかけて、新聞や雑誌の広告で彼女の名前の出ていない東宝映画を捜す方が厄介なくらい、やたらといろいろな映画に出ていたものだ。演技力が不足とか、鼻が高すぎるのが難などとさまざまに言われたものの、やはり美貌は美貌、このころの人気スタアであった。エノケン映画にもこの映画をはじめ、数本につきあっている。この映画では、隼の長吉に捕えられて縄を打たれ、庭先につれてこられた杉作と新吉を、右近と共に眺め、「まあ可哀そうに」と言って眉をひそめた彼女を記憶しているだけだ。 「しかしお園の返事も待たずに、鞍馬天狗を取囲んだものは、又しても氷の刃であつた。奇手、奇策、剣道四十八手の裏表の使ひ分けも鮮やかに、剣の山、槍の林を乗越えて鞍馬天狗は逃げた。ところが此処に不思議なことには、天狗廻状の文字があの美しいお園の手跡にそつくりなのだ」  まったく、書きうつしているといらいらしてくる。今回のこのキネ旬紹介欄は最低だ。ギャグをひとつも思い出せぬ書きかたであり、具体的に誰がどうしたかを書かず余計なことばかり書いている。だが、怒ってもしかたがない。  凧あげのシーンがたしかこの辺であったと記憶する。子供たちと一緒に天狗が凧あげをしている。天狗は土手に腰をおろし、足の指に凧の糸をくくりつけて呑気に歌をうたっている。そこへ急を告げにきた吉兵衛と杉作。天狗は立ちあがるが凧糸に足を引っぱられ、おっとっとっと、などと珍妙なポーズ。 「意を決して再び右近の邸に忍び込んだ天狗の耳に聞えて来たのは、新撰組から浪人々別帳を借り受けて勤王の志士を根こそぎ暗殺しようと言ふ謀議、聞いて憤激した鞍馬天狗は、その密使に化けて再び単身新撰組の本城壬生の屯所へ、駄馬に鞭打つて颯爽?! と乗込んで行く。天狗から桂小五郎(北村武夫)への手紙を途中で角兵衛獅子の杉作から奪つた新撰組の一隊も天狗逮捕に同じく壬生の屯所へ! 新撰組の屯所へうまく忍び込み浪人々別帳をうまく手に入れようとした刹那、天狗の背後に迫る芹沢鴨等の魔の手!」  座敷で近藤勇と対面している、密使に化けた天狗。密使というのは白髪|白髯《はくぜん》の老爺《ろうや》である。そこへ報告がくる。立ちあがる近藤勇。 「おっと」いつの間にか老爺の手に拳銃銃が握られている。「お静かに」老爺、髯をむしり取って天狗の素顔となり、エヘッと笑う。あっと驚く近藤勇。  だが、ここで天狗は捕えられてしまう。芹沢鴨にさんざ痛めつけられ、桂小五郎の居場所を問いつめられる天狗。だが天狗はのらりくらり。芹沢鴨のことを葱《ねぎ》沢鴨さんなどと呼んで茶化したりする。「こらっ。言え。桂小五郎はどこだ」「あのね」天狗、芹沢に耳打ちする。「日本」「ははあ日本」芹沢、一瞬考えてからこらっと怒鳴る。このあたりの呼吸、あきらかにエンタツ・アチャコからのいただきである。  石抱きの拷問にかけられた天狗。脛を出すと、なんと串団子のように脛がぽこりぽこり山型に盛りあがって並んでいる。天狗、それを指で撫でながら「おーやおや。なあんだいこれは」。この足の作りものはよく出来ていて笑ってしまった。 「牢内に呻吟《しんぎん》する天狗の許にお登世の恨みの刃が迫つて来た。鞍馬天狗遂に危い!」  突然お登世などという名前が出てくるが、このお登世をやっているのが榎本健一夫人の花島喜世子。「ちやっきり金太」以来の登場で、よく記憶していないがとにかく天狗をつけ狙う役である。天狗が首を天井から縄でくくられて立っている。その横には深い穴。お登世がやってきて天狗の鼻さきに白刃をちらつかせる。穴へ追い落されると宙吊りとなって当然一命を落す。天狗が首をくくられたまま穴の周囲を足さきだけで逃げまわるというギャグ。どうやって天狗がこの場を逃れたのかも記憶にない。 「と思はれたが天狗の心臓と頓智《とんち》は忽ち活動を開始し、危地を脱して、自由の天地へ飛び出した。身体が自由になつたら此方《こつち》のもの、忽ち得意の大躍動! 遂に天狗廻状の発行者をつきとめて重なる恨みを晴らすべく獅子|奮迅《ふんじん》ならぬ天狗奮迅の大殺陣、当るを幸ひなぎ倒し剣豪大河内も寛寿郎も三舎を避ける大立廻り」  まったく余計なことばかり書いている。よほどギャグに対する感受性のない人が書いたのだろう、などと怒ってみてもしかたがない。 「勤王の敵天狗廻状は斯《か》くして跡を断つた」  最後の大立廻りはよく記憶しているが、大がかりなだけでギャグがなく、つまらなかった。エノケン映画を見にくる客は当然大立廻りではなくギャグを期待しているのだから。前記友田氏も同じように感じたらしい。 「ラストの大捕物の場面の如き、戸板、はしご、大八車、縄等時代劇映画のあらゆる捕物の方法を使用して、阪妻映画の如き大きな見せ場をつくつてゐるが、戸板や大八車や捕手連の笑劇的使用に工夫が足りぬので大規模なわりに効果が薄かつた」  時代劇専門の監督の計算違いであろう。 「少年読物鞍馬天狗の笑劇化はやはり年少の客のよろこぶ程度の作品でしかない。演出では表情のうまいエノケンの大写しを利用してゐる点が目立つた」  いかに酷評されようとやはりエノケン映画は東宝の弗箱《ドルばこ》。これが「上海陸戦隊」と二本立てで封切られたのは五月二十一日、日劇、渋谷東横、新宿東宝。これは東宝オールスタアの「忠臣蔵」さえ圧倒する大入りだった。  その他の配役を書いておこう。宗像右近の用人を金井俊夫、村尾真弓が南光一、本荘を浮田左武郎、桂小五郎の情人幾松をポリドールの〆香が演じている。一曲歌ったのだろうが憶えていない。 「上海陸戦隊」は原節子の義兄熊谷久虎監督の戦争大作で、大日方伝、原節子の主演。原節子はこの時十九歳で人気上昇中、この映画では可憐な中国娘を演じて当時たいへんな評判になったそうである。  これより一カ月ほど前の四月十三日には、最近テレビでも放映され、名作として映画史に残っている「わが家の楽園」が帝劇、武蔵野館などの松竹洋画系で封切られている。ロバート・リスキン脚本、フランク・キャプラ監督の名コンビに、ジーン・アーサー、ジェームス・スチュアート、ライオネル・バリモア、エドワード・アーノルド、タップのアン・ミラーまで出演している豪華配役だというのに、なぜか不入りだったそうである。なぜだろうな。テレビで見たがとてもいい映画だったのに。  さらにその前月三月二十五日には大阪朝日座などで羅門光三郎の「次郎吉裸道中」という新興京都の映画が封切られているが、ぼくはこれを戦後、梅田小劇場で見ている。喜劇的な時代物でとても面白く、よく出来たプログラム・ピクチュアだったという記憶はあるのだが、あいにく九割がた忘れてしまった。この映画史から省かなければしかたがない。残念。 [#改ページ] 俳優一覧[#「俳優一覧」はゴシック体] あ行[#「あ行」はゴシック体] アーサー・シンクレア アイリーン・ダン 青木虎夫 青野瓢吉 アダム・ブロチッチ アドルフ・マンジュウ アナベラ アニタ・ルイズ 綾小路絃三郎 嵐寛寿郎 嵐徳三郎 嵐芳三郎 アラン・ヘール アリ・ボール アル・クック アルバート・コンティ アルベルタ・ヴォーン アルレット・マルシャル アンナ・リー アン・ミラー 伊井※[#「口+令」、unicode5464]子 飯塚敏子 飯田蝶子 イーヴ・サザーン イヴァン・レベデフ イザ・ミランダ 伊沢一郎 伊志井正也 石川冷 石田一松 石浜朗 磯川勝彦 井染四郎 井田芳美 市川朝太郎 市川右太衛門 市川圭子 市川小文治 市川正二郎 市川笑太郎 市川扇升 市川春代 市川百々之助 市川吉之助 市川莚司(のちの加東大介) 一木礼司 井上忠美 井上敏正 今泉浩 今成平九郎 入江たか子 入江俊夫 ウィトルド・コンチ ウイリー・ファング ウィリアム・ダンカン ウイリアム・ヘンリー ウイリアム・ポウエル 上代勇吉 上田吉二郎 上原謙 ウォーレス・ビアリイ ウォルター・ヒューストン 浮田左武郎 潮万太郎 ウディ・アレン 生方賢一郎 梅村蓉子 ウラジミール・コレノフ ウルリッヒ・ハウプト エヴァ・ガードナー 江川宇礼雄 エスター・ウィリアムズ 悦ちゃん エディ・ティヴィス エディ・ポロー 江戸川蘭子 エドワード・アーノルド エナ・グレゴリー エノケン(榎本健一) エミール・ヤニングス エムス・ダーシー エリザベス・アラン エルモ・リンカーン エロール・フリン 及川道子 オイゲン・ボードー 近江富士子 大川一美 大川原左雁次 大倉千代子 大倉文雄 大河内伝次郎 大崎史朗 大谷友彦 大日方伝 大村千吉 岡譲二 小笠原章二郎 岡田時彦 岡田嘉子 小倉金彌 長田仁宏 押本映治 小高まさる 尾上華丈 尾上菊太郎 尾上桃華 オランプ・ブラドナ 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ルネ・クレール レオ・フォーブスタイン レオン・メッツ レナード・スミス ローランド・パートウィー ロッテ・ライニガー ロバート・スチーヴンソン ロバート・リスキン わ行[#「わ行」はゴシック体] 脇坂保二郎 和田五郎  発表誌 「オール讀物」昭和五十五年四月号〜昭和五十六年十一月号  単行本 昭和五十六年十二月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年十月二十五日刊